心に留めたマリヤ

 イエスの成人式

先週、先々週と連続したクリスマスメッセージに登場したシメオンとアンナ。彼らに祝福され、祈られたその後のイエスと両親のことが語られている貴重な話しをルカは取り上げている。ユダヤ人男性が成人を迎える12歳の時の出来事である。

ルカによる福音書2章41~51節(87p)

41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた

エルサレムから程遠いガリラヤのナザレに住んでいたイエスと家族だったが、毎年過越の祭にはエルサレムに上っていたようである。過越の祭はイエスにとって幼い頃から特別な行事だったことがわかる。

42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した

12歳の時に慣例に従って…とあるのは、この祭りの時に成人式をお祝いしたからだった。この時期は父親のヨセフも健在だったようである。また親戚も一緒だったことが語られているので、有名になる前のバプテスマのヨハネも一団の中にいた可能性もある。そして、祭りが終わるまではすべて順調だった。一族が一日ほどの距離を故郷へ戻りかけていた時に事件が発覚する。イエスがその中にいなかったのである。その経緯は43節以降に語られている。

成人するということの真の意味

43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった44 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、45 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した46 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた47 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた

マリヤとヨセフがさぞ心配しながらイエスを探したことだろう。次の節で三日後にイエスを見つけたとあるので、エルサレムの街中をまる一日探したが見つからず、次の日にイエスを見つけた計算になる。イエスはというと、宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らと聖書について議論していたということである。まるで中心人物であるかのような聖書のナレーションである。ここに12歳にして、神の言に目覚め、人類を根底から造り変えることができる神の言に目覚めたイエスの姿が伝えられている。成人するということは、自分の行動と発言に責任を持つことが認められる(公に許される)ということである。だからイエスは自分の意志と判断でエルサレムに留まった。聖書の記述に関する自分の意見を人前で分かち合うことが初めて許されるようになったことに興奮を抑えきれなかったのであろう。少年イエスには、神の言を語ることこそが自分の使命だと確信するに足る出来事だったのではないだろうか。すでに聖書の洞察力は当時の教師たちをも驚嘆させるものであった。彼が聖霊に満たされて神の言を民を導く教師たちに熱弁している姿が目に浮かぶ。

少年イエスの逆質問

48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」
50 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった

両親にしてみれば当然の反応かもしれない。イエスがすぐに見つからないことにどれだけ心配したことだろうか。最悪の結果にならないように祈りながら探していたことだろう。そうしたところ、イエスが何喰わぬ様子でユダヤ人教師たちと堂々と渡り合って議論していたのである。あっけにとられながらも、自分たちがいかに心配したかをイエスに愚痴らないではいられなかったマリヤであった。

これに対する49節のイエスの返事が異様に感じるのは私だけだろうか。この福音書著者のルカが明らかに聖霊に導かれて筆を執った箇所なのだが、これをどう理解するかが重要である。母の「どうして?」に「どうして?」で返したイエス。マリヤが言った「こんな事」とは両親に断りもなくエルサレムに残ったこと。両親を心配させたこと。そして、両親に彼を探す手間をかけさせたことだと考えられる。成人したなら、人に迷惑をかけないだけの責任ある行動をとって欲しいとイエスを叱りたかったに違いない。

ところがイエスはマリヤに詫びるわけでもなく、彼の行動を予測できなかった両親の方に問題があるかのような逆質問をする。49節後半のイエスの言葉に注目しよう。

「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」

このイエスの返事に、本当の意味で成人するとはどういうことなのかが表現されている。神から託された人生の使命があることを自覚して生きることが成人するという真の意味。 イエスが成人を迎えた時に起きた変化とはこれであった。それまでの両親に服従して生きる人生から、神に服従し、神に対する責任を果たして生きる人生に切り替わったことを意味していた。その宣言がイエスの返事である。彼は両親の親権がおかれているガリラヤの家ではなく、神の親権を象徴する「父なる神の家」に属する者となったことを自覚し、宣言した。

父の家に属する者の使命は、神の言葉を自分の言葉で分かち合うこと。それを教師たちの中で実行したイエス。それを実践しないまま、成人したなどと到底宣言できないことを理解していたイエス。神の御前で成人することは単なる儀式ではない。バプテスマに通じるものであり、神の御心に本気で献身して生きることを意味していた。イエスはその他のすべてのことを脇に置き、ただ語らずにはいられなかった。神の言葉を分かち合わずにはいられなかった。それが神の宮でのイエスの姿だったのではないだろうか。

神の御心を心に留めながら生きる

51 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた

イエスが本来の神から授かっている人生の使命を果たすのはまだ将来のことであった。彼はこの後、ひとまずは家族に仕えることが神に託されている使命だと理解し、実行した。家族、教会、社会と向き合い、忠実にそこで神の使命を実践することも大切である。イエスは私たちと変わらない現実を生涯の前半で生きられた。神の言葉の証人として生きることと、この世に仕えることの両方が大事だと聖書は語る。来る新年もイエスのように神に対しても、この世に対しても忠実に使命を果たす者でありたい。そのような世界となるように「これらの事をみな心に留め」ながら、共に主の業に励もう。

 

2023年12月31日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「心に留めたマリヤ」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/3_BQfKB1j-w?si=xvo9pYLCvcv6k1mW