洪水物語⑦ 洪水後最初の礼拝
はじめに
聖書で最初に具体的な礼拝が伝えられているのは創世記4章のカインとアベルの箇所です。その時にアベルが羊を神に捧げたのが聖書全体の礼拝の原型になっています。ただし、正確には彼らの両親が神に対して罪を犯した時、3章21節で神が羊と推測される生き物をご自身の手を血に染めて罪のあがない(贖い・罪とその呪いから解放されるために必要な代償)と赦しを象徴する毛皮の服を与えられた箇所が原点になっています。その後4章26節にさりげなく、アベルに代わるセツとその子孫がその時代から共同で神の御名を呼び求める礼拝をするようになったことが報告されています。これら一つ一つの情報を通して真実の礼拝とは何かを聖書は伝えようとしています。
これに続いて具体的な礼拝の姿が語られているのが箱舟から出たノアたちが行った礼拝です。この箇所から知らされる神の思いと決意を汲み取りながら、神に受け入れられる礼拝について理解を深め、神の御心に生きる者とされましょう。
神の祝福の言葉・再び
創世記8章13-22節(8p)
13節 六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもては、かわいていた。14節 二月二十七日になって、地は全くかわいた。15節 この時、神はノアに言われた、16節 「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。
17節 あなたは、共にいる肉なるすべての生き物、すなわち鳥と家畜と、地のすべての這うものとを連れて出て、これらのものが地に群がり、地の上にふえ広がるようにしなさい」。
創世記第1章で神が生き物をその種類に従って造られた時に、それらを祝福した時の言葉がここで再び登場する。神が授けた命を尊ぶことができるものたちが地の果てまで増え広がること。これが天地創造の意図である。この神の意志を否定し、ないがしろにして生きることを選んだすべての生きものは滅んだ。そこで神に選ばれ、箱舟に導き入れられ、命を長らえたすべての生き物たちに神は再度祝福の言葉をかけられたのである。箱舟に入ったのが約一年前の2月17日であった。
ノアが捧げた礼拝とは、どんな意味を込めたものだったのか
18節 ノアは共にいた子らと、妻と、子らの妻たちとを連れて出た。19節 またすべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上に動くものは皆、種類にしたがって箱舟を出た。20節 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
まず、ノアたち一家が箱舟から出たとある。その後で動物たちも神に導かれてそれぞれ順番に箱舟から出たと聖書は描写する。神に祝福された生き物たちの新たな門出である。その直後にノアが箱舟から出て最初にしたことに注目したい。その行為が我々を少なからず驚かす。ノアが最初にしたことは祭壇を造ることであった。その目的は神への礼拝を捧げるために他ならないのだが、その内容が明確に語られている。神が先にノアに命じて箱舟の中にノア自身の手で選んで彼らと一緒に約一年間命を守られた生き物の内、清い獣と清い鳥の中からこれはという特別なものを選別して祭壇の上で神に捧げたことが語られている。「すべて」と「清い」にそれらの情報が凝縮されている。どの命もノアにとっては大洪水を生き延びたかけがえのない同志であったに違いない。それでもその貴重な同志を神に献げてからでないとこれからの新しい人生を始められないと自覚していた彼であった。
神の覚悟
21節 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。22節 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。
アダムたちがアベルたちに伝え、ノアたちに継承されたこと。それは神が創造された世界は、神ご自身の命の犠牲の上に成り立っているということ。これを正しく受け止め、共に神の大いなる憐れみと守りと導きの中で生き続けることが許されているのである。これを忘れずに今後も生きるという決意がノアの献げ物には込められていたことが伺われる。だからどんな献げ物でもいいわけではない。自らによく吟味して選んだ最上のものを神に捧げたのである。アベルの模範にノアも習ったのであった。そして、それは神の模範なのである。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章16節
神がアダムたちに見せた最初の模範から最初で最後の決定的な模範であるイエス・キリストのあがないの業に至るまで、神は世の終わりの時が到来し、地が消滅する時まで「22節 地のある限り」あがないの業を続けて下さると聖書と歴史を通して現代に生きる我々に語り続けているのである。
神は、ノアの行為を通して示した神のあがないの業への応答としての礼拝を「香ばしい香り」として受け止め、この時に既にひとり子イエス・キリストを地上に遣わすことを決断しておられたのではないだろうか。しかも、それですべてが終わるのではなく、それに続く大いなる御業の完成を実現していくために。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ福音書3章17節
ヘブライ語で箱舟「テバー」という。この語源は葬儀の時に死者を入れる棺(ひつぎ)から来ている。また、この語から籠(かご)という言葉も派生し、出エジプト記2章3節でモーセの母親が赤ん坊の命を守るために籠に入れてナイル川に流した話の時の単語も箱舟と同じ「テバー」なのである。これらに共通の主題があることにお気づきのことと思う。
子どもの命を死の危険から守ろうとする親の必死の姿。ノアはこの神の愛を受け止めて自分にできる精一杯の礼拝を捧げたのである。神が自ら大いなる犠牲を払って下さったことによって自分たちの命があがなわれていることを自覚して。
現代に生きる我々も、聖書を通して示される神の真意を正しく受け止め、ここから世の中に出ていく者でありたい。
2025年3月2日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「洪水物語⑦ 洪水後最初の礼拝」
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