洪水物語⑨ 収穫と悲劇
- 2025.03.23
- 目からウロコの聖書
はじめに
創世記9章18-29節(10p)
18節 箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
19節 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
次の10章に語られているノアの息子たちの子孫の情報では、次男ハムには4人の息子がいて、末っ子がカナンだったと書かれています。今回の箇所でハムの息子カナンが登場することから、ノアの8人家族が箱舟から出たのち、今回の話迄ある程度の年数が経過していたことがわかります。
ノアは聖書ではじめて登場する事柄を多く行った人物であった
20節 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、
21節 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
ノアは聖書で最初に登場するぶどうの栽培人。ぶどう酒を発明した最初の人物だった可能性もある。これ以前にはお酒の話は登場していない。聖書の最大の特徴の一つは、イエス・キリスト以外、誰一人として神の前に完璧な人はいなかったことを赤裸々に記録していること。ノアも例外ではなかった。ノアがぶどう酒に酔ったことによって起きた今回の大問題。少し弁護するならば、ノアは酒に酔うという体験が不足していたのかも知れない。ノアは聖書で登場するアルコールで酔った最初の人物、またそのために最初の失敗をしでかした人物だった。
聖書では、アダムとイブが罪を犯して以来、裸を見られることは自分の不完全さ、罪深さを見られる非常に恥ずかしい行為として表現されている。従ってノアの時代、子どもたちであっても親の裸を見ることはタブーだったと考えられる。23節でセムとヤペテが父の裸を見ないように父に着物をかけたことでも分かる。
ハムが犯した過ちとは何か
22節 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。23節 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。24節 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、25節 彼は言った、
/「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、/その兄弟たちに仕える」。
この箇所にはいくつかの疑問点がある。ハムが父の裸を見たことがどうハムの息子カナンへの呪いにつながるのか。また24節で「末の子が彼にした事」とあるが、明らかに兄弟たちに父親が裸で寝ているのを告げたのは次男のハムのはず。これはどういう意味なのか。
まず24節の「末の子」という言葉、新共同訳聖書も新改訳聖書も同じく「末の子」と訳しているが、英訳聖書で古くから定評のあるキング・ジェームズ訳(日本では欽定訳と表記される聖書)ではここを「younger son」つまり「下の息子が」と原典のヘブライ語により近い訳をしている。そこでこの箇所はやはり次男のハムが父親の裸を見たと理解して問題ないと考えられる。
それならば、次にノアはなぜハムではなくその息子のカナンの将来について言及したのか。この理由もいくつか考えられる。
カナンはイスラエルが出エジプト後に攻め取ることになるアモリ人を含む複合の民からなるカナン先住民の始祖である。やがてアブラハムが寄留することになる土地で、その子孫がエジプトでの奴隷生活を余儀なくされていた数百年の間にすっかり堕落することになる。もともとその傾向はアブラハムの甥であるロト一族が移住したソドムの町の説明でも見て取れる。創世記13章13節に「ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。」と表現されている。
それでも主なる神はさらにカナンの地全体が決定的に堕落するまでその民を滅ぼすようなことはなさらなかった。15章16節で神がアブラハムの子孫にカナンの地を相続させると約束された時、カナンの別名アモリ人が住んでいる地のことを次のように表現した。「四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです。」神の目にはまだその時点では少なからず神の目に正しいとされる人々が存在したことを示している。神はソドムとゴモラの例で言えば、神の御心に従おうとする最後の一人を脱出させないではその地の住民を滅ぼすことができない神なのである。
しかしその地方、ないし国の悪が地に満ちるところまで行きついた時に神はついに裁きを下すのである。その時の出来事がソドムとゴモラであり、エジプトでモーセを用いて起きた十の災いであり、出エジプト後のイスラエルのカナン侵入の出来事なのである。
そこで本題に戻ろう。ハムはどのように神と父を裏切ったのか。それは、第一に父が酔っ払って裸で寝ている姿を憐れむことなく、他の兄弟たちに知らせて恥を掻かせたことである。父が最も嫌うことと知りながら、ハムは兄弟たちに父の失態を告げてしまったのである。
第二に彼がしなかったことも問題であった。本来ならば、父が寝ている内にこっそりとハム自身が服を父にかけるか、そのまま見なかったことにして黙って天幕を後にすることもできた。彼はそうしなかった。
第三に年上であるハムが兄の協力を得て、父に服を被せたのではなく、ハムよりも年下の一番下の弟に自分がすべきことを、傍観して兄と弟にさせたことである。そのため、文中で「(末の子・改め)下の子が彼にした事」とは、このハムのした過ちとノアの末の子である弟ヤペテがしたことの両方を意味していたのかもしれない。だからこそ、父にも弟にも恥ずかしい思いをさせた罪深いハムに対して将来に関する厳しい預言を神から託されたのであろう。すなわち、ハムの影響下で育つ子どもがどれほど神の前に落ちぶれていくかを預言したのである。それは神が呪う以前に、ハムが神と父と兄弟を呪う行為をした結果なのである。
長男セムとヤペテへの祝福の預言をしたノアとその一生
26節 また言った、/「セムの神、主はほむべきかな、/カナンはそのしもべとなれ。27節 神はヤペテを大いならしめ、/セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。28節 ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた。29節 ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。
ハムとは逆に自分を敬い、神の御心に忠実に対応したことにより、父親に神への賛美を捧げさせたセム。ヤペテは黙って長男セムの指示に従った。この三人の息子はノアの分身としての役割も果たしている。そして我々への教訓なのである。今週も我々は様々な事柄に直面することであろう。その時に神と人々への祝福につながることを選び取るのか、神を軽んじ、自分や家族や隣人を辱め、呪うことにつながることを選び取るのかが問われている。
ノアは次男ハムとその孫たちを願っているようには育てることはできなかった。それでも天寿を全うし、神と共に最後まで生きようとした人物、そして人類歴代4番目に長生きをした人物として聖書に名を残したのである。
2025年3月16日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「洪水物語⑨ 収穫と悲劇」
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