ロティ・ムーン女史の献身とその生涯

「信仰の友と真実の信仰を求める方への大和南林間便り71号」 斎藤剛毅 牧師

ロティ・ムーン女史の献身とその生涯

 クリスマスが近づく前の一週間、世界のバプテスト教会は「世界祈祷週間」を守り、外国伝道のために特別献金を捧げます。この「世界祈祷週間」を守るきっかけを造った人は、アメリカから中国伝道のために派遣された宣教師、ロティ・ムーン女史でした。今回は「ロティ・ムーン女史の献身と生涯」と題して語ります。

 1840年12月、エドモンド・ムーン(Edmond H.Moon)とその妻アンナ・マリア(Anna Maria)との間に、三番目の子供が生れ、シャーロットと名づけ、ロティー(Lottie)という愛称で呼ばれました。父親のムーン氏は長老教会の信仰熱心とは言えない会員でしたが、母親のムーン夫人は敬虔なバプテスト教会の信徒で、近くに教会が無かったので、自分の家を解放して日曜学校を開き、近所の人を案内して礼拝を守り、牧師が来られない時は、自分が礼拝を導くほどの熱心なクリスチャンでした。

1842年、ロティが生まれて2年後に、バプテスト教会が近所に建つことになりました。ムーン氏も教会の信者となり、信仰熱心な教会員になりました。しかし、ロティは宗教的関心を示しませんでした。ヴァージニアの専門学校に入学し、フランス語、ラテン語などの語学に優秀な才能を示しましたが、いたずら好きな彼女の品行成績はいつも可でありました。エイプリル・フールの前夜、学校の屋上にある鐘に毛布を巻き付けて縛り、翌朝に鐘が鳴らず、校長をびっくりさせたりしました。

大学に入ると語学を専攻し、ギリシャ語、ラテン語、その他の外国語を学びましたが、宗教には批判的な態度を取り、何故教会に行かないかと尋ねられると、「干し草の上に寝転んで、シェクスピアの本を読んでいる方が、つまらない説教を聞くよりずっと良い」と答えるのでした。1859年の春、ロティが19歳の時、ジョン・ブローダス(John A.Broadus)博士のキリスト教特別集会が開かれ、学生は早天祈祷会を開きました。何とかして、この伝道集会にロティ・ムーンが出席し、神を信じ、イエス・キリストを救い主として受け入れる決心をして欲しいと願ったからです。学生たちは熱心に祈りました。

それを知ったロティ・ムーンは憤然として、「私のためになんか祈らないで!」と語り、友達の熱心な誘いを巧みにかわし、出席を拒否しました。しかし、彼女は一晩だけひやかし半分に行くことを決心し、ブローダス博士の話を聞いたのです。その晩、ロティは部屋に帰ってから、一晩中祈り続けて、神の前に自分のそれまでの不信仰を懺悔し、心から悔い改めました。次の朝、仲間の早天祈祷会に出席し、皆と共に熱心に祈るようになったのです。友達はどんなに喜び、感謝したことでしょう。

純粋な友情と愛から生まれた執り成しの祈りは、遂にロティの心を神の前に打ち砕いたのです。粘り強い信仰の祈りは、人の心を変えることを示す良い実例です。シカゴのクリスチャン学生グループが、まだ救われていない学生のために毎週祈り、リストに載っている学生全員が救われるまで祈り抜いた話は有名です。救われた学生の中に、後に「青年をキリストへ」の創設者、トーレイ・ジョンソン博士がいます。世界中に展開された「Youth for Christ(若者をキリストへ)」の運動は祝され、数千万の若者がこの運動によって救われたのです。この救霊運動は粘り強い執り成しの祈りから生まれたのです。

ロティは祈りの中で、全身全霊を神に捧げる決心をし、ロティは変わりました。知性の輝きに加えて、優しさと寛容が加わり、はっきりとした人生の目的に向かって進む気迫が感じられるようになりました。そして、友人への影響力を増してゆき、ヴァージニア大学の最優秀卒業生として卒業しました。

神に自分の全てを捧げる決心をして以来、神を知らない人々に福音を伝えることが自分の使命と感じるようになったロティは、女子教育の先駆者として、ケンタッキー州のダンヴィル女学校の教師となり、その傍らバプテスト教会で初めての牧師の助手となって伝道しました。ロティ・ムーンは女子職員のミス・サンフォード(Miss Sunford)と親しくなり、1870年に二人は、カーティスヴィルの新しい女子学校の経営を委託され、成功を収めます。

新しい学校で教え始めて間もなく、ロティの母が病気で重体になり、亡くなるまで母の傍で看病し、平和な笑みを浮かべながら眠りにつく母の顔に、死に打ち勝つ信仰者の勝利を見たロティは、悲しみの中にも、感謝をもって姉に手紙を書きました。「死に打ち勝った母の姿を見た今は、もう死を恐れることはありません。」と。

ロティの妹、エドモニアが中国に伝道に行く決心をし、1872年の春、北中国の中心地、登州に赴任しました。1873年2月、ロティが34歳の時、ロティ自身も親友の学校経営者、ミス・サンフォードと一緒に中国伝道を決心し、1874年9月31日、サンフランシスコより中国へ向けて出発しました。妹との再会の喜びの後、ロティは中国語、中国文学、中国の歴史を学び、困難な伝道の仕事に取り組み始め、次のような手紙を書き送っています。

「キリスト教国の人たちは、異教の国における困難を想像することは出来ないでしょう。その困難は人間の力では克服することは出来ないものです。中国でクリスチャンになる勇気が与えられるとすれば、それは神の恩寵によるものです。先祖代々伝えられて来た異教の習慣が根強く残る生活に生きていて、それを破ることは、中国人にとって、生活の根拠を失うことなのです。

その上、外国人と親しくすると、皆から反感を持たれます。そういう中で、クリスチャンになることは、大きな勇気を必要とすることなのです。」

ロティとエドモニアの二人の姉妹は、同じ家に住み、学校を始めたいと願い、やっと適当な家を見つけるのですが、エドモ二アの目が悪化し、喉を傷め、肺が冒され、神経衰弱もひどくなり、帰国することを余儀なくされました。一緒に連れ添ってアメリカに帰り、エドモニアが健康を回復してゆくのを待って、ロティが再び単身で、中国の登州に帰ったのは、1877年のクリスマス前夜、ロティ37歳の時です。中国在住のバプテストの宣教師はロティと、年上の宣教師二人、合計三人でした。

ロティは登州の宣教師館に住んで、極めて困難な伝道に取り掛かります。1878年に女子のための学校を開いたのですが、古い保守的な中国社会では、受け入れてもらえませんでした。彼女は農村の村々を回り、子供たちに希望を託して、歌を教え、本を見せて伝道しました。登州から平度に伝道の足を延ばし、そこに中国人の家を買い、洋式に改造せず、中国風を守り、食物も、衣服も、中国人と同じものを食べ、着て過ごすと、遠ざかっていた人々は彼女に親しみを感じるようになりました。こうして平度の伝道は本格的に始められてゆくのです。

村の人々は心を開くようになりましたが、反対する人々は彼女を「悪魔の女」と呼びました。ロティは「私は人間です。悪魔ではありません。世界中の人はみな兄弟姉妹なのです。」と答え,決して怒らず、いらだたず宣教を続けました。ロティ・ムーン女史は宣教師をもっと中国に送って欲しいと本国に訴え、「アメリカ南部バプテスト連盟の婦人たちのヴィジョンがもっと大きくなり、新しい世界伝道の運動が起こることを期待します」と書き、また「南部バプテストの婦人たちの働きが弱いのは、組織が無いからだと思います。婦人たちが外国伝道と国内伝道のために、一週間特別な祈祷と献金を捧げる時を持つことを提案します。外国伝道のためにはクリスマスが近づきつつある一週間が適当であると思います。」と強く訴えました。

その提案により、南部バプテストの婦人部が中心になって、「世界祈祷週間」が設けられ、祈祷週間に特別な献金が世界伝道のために捧げられるようになりました。1888年、バプテストの婦人たちは二人の宣教師を中国に送るに十分な献金を捧げました。そして、1890年には更に二人の宣教師が中国に派遣されました。
またロティ・ムーン女史の働きが実って、1889年に、日本に初めての宣教師、マッコール夫妻とブランソン夫妻が派遣され、横浜港に到着したのです。

ロティ・ムーン女史の働きが功をなし、1889年に初めてのバプテスト教会が登州に組織されました。会員は11名でした。やがて日清戦争(1894-95年)が始まり、宣教が困難になりましたが、やがて戦争は収まり、伝道と教育に打ち込んだのですが、色々な事情で宣教師の数が減り、ロティは大部分の仕事を一人でせざるをえませんでした。

ロティが59歳になった時、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス、日本の中国侵略に反抗し、キリスト教宣教に反対する義和団事件

(1897-1901年)が勃発し、1900年ムーン女史が60歳の時、平度付近の村々でクリスチャン迫害の嵐が吹き荒れ、数千人のクリスチャンが銃撃されて生き埋めにされたり、焼き殺されたりしました。義和団の乱が終わった翌年、神の恵みの力が強く現れ、教会にリヴァイバルが起こり、小さな教会に求道者が溢れ、クリスチャンが大勢生まれたのです。

1903年にムーン女史に帰国の休暇が与えられましたが、翌年急ぎ、中国に帰ります。1911年ロティ・ムーン女史が71歳になった時、中国に革命が起こり、その翌年から飢饉が北中国に広がり、平度も飢饉に襲われ、日毎に数多くの人々が餓死してゆく中で、ロティ・ムーン女史は自分の食料を貧しい人々に与え続けたのです。その結果、彼女は次第に衰弱してゆきました。友人たちは彼女をアメリカに帰すことに決め、ロティは1912年にサンフランシスコに向かう船が神戸港に立ち寄った際、12月24日-クリスマス・イブの日に自分の死が近いことを悟りました。

看護師はムーン女史が手を合掌するようにして、ぶつぶつ言っているのを知って、耳を当ててみるとロティが中国人の名を呼んで挨拶をしていることが分かりました。すでに天に召されていた中国の友人たちが彼女の魂を天国に迎えるために来ていたのです。顔に再会の喜びを浮かべ、ロティは信仰の友人たちの名前を呼びながら天国へ旅立ってゆきました。

神に捧げつくしたロティ・ムーン女史の生涯は、世界祈祷週間ごとに覚えられています。しかし、世界には名も覚えられず、しかし、清く、美しく、キリストのために全てを捧げて外国伝道に生涯を捧げた多くの宣教師がいます。そのような人も神の前には尊い人々です。日本伝道においても、少数の有名人よりも多数の無名の牧師、宣教師、信徒の働きによって教会が建てられていったのです。それらの人々は、イエス様の「世界宣教命令」に従って、その生涯を外国伝道のために捧げ、福音を宣教して天に召されて行ったのでした。

主イエスは言われた。「わたしは天と地の一切の権限を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章18-20節)

私たちは世界伝道のために献身し、福音宣教に携わって救霊のために戦っている宣教師のために、日々祈って支えることが主なる神様から求められています。使徒パウロは「私のために祈ってほしい」と手紙の中で再三訴えています。世界と日本において、宣教に従事している宣教師を覚えて、毎朝執り成しの祈りを捧げましょう。