生まれた時から背負った十字架

アドベント

クリスマスは12月25日。その日が日曜だった場合にはその日がクリスマス礼拝となるが、それ以外の時はそれよりも前の一番近い日曜日となる。今年は12月24日である。そして、クリスマス礼拝から数えて4週間前の日曜日からアドベント=待降節に入る。アドベントとは「到来する」という言葉から来ている。そして、その到来はキリストの到来を意味する。これには二つの意味が込められている。一つは2千年前のキリストのご降誕の出来事。キリストが聖書の預言の通りに到来し、キリストを信じて従う者達のために罪のあがないの業を成し遂げられた、その始まりを記念する。

もう一つが、神が定められた世の終わりの時にキリストが神に背く者達を滅ぼし、神に従う者を永遠の御国に導くために再び来られる時を待ち望むことを指す。

 聖書の預言に従って、人類の行く末を責任を持って導かれる神

神はこの世界を目的を持って創造された。人間を頂点に、すべての生き物が互いに尊重し、助け合い、神の教えを実行しながら幸福に生きる世界を創造された。しかし、神の教えを退けて自分勝手な基準で生きることを選択した人類の祖。そんな世界が永遠に続いていいわけがない。そこで神は人類が自らに招いてしまった罪と悲劇に満ちた不完全なこの世に終わりの時が来るように人類を導くこととされた。

それは神の正義と愛を基準にした決断だった。神は罪を犯す人類を完全に滅ぼす代わりに、人が神の意志を知り、キリストを通して示めされる神の創造目的に立ち返る道を人類に残された。こうして命を軽んじるこの世界の現実の中に神のひとり子イエス・キリストが二千年前に生まれた。その時に現れた星に導かれてイスラエルで生まれた特別な赤ん坊に会おうとした東方の学者たち。その赤ん坊を見つけさせて、抹殺しようと画策したヘロデ大王。しかし、学者たちは天使のみ告げで王に赤ん坊の情報を報告せずに別の道で帰路についた。

今年のアドベント宣教シリーズはイエスが誕生した後に起きた出来事を取り上げている。

マタイによる福音書2章16~18節(2p)

16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。17 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。18 「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」

預言者エレミヤはおよそイエスが生まれる600年前に活躍した人物。ラマという地名もラケル(イスラエルの名前の元となったヤコブの妻)が死亡した場所もイエスが生まれたベツレヘムに近い。エレミヤはこれらの地域で子どもの虐殺事件が起きることを預言していた。

イエスが生まれた時から背負った十字架

ベツレヘムは聖地エルサレムからそう遠くはなかった。そのため、神殿で犠牲として捧げられる羊などの家畜も育てられていた。宿屋が満室で家畜小屋で産声をあげたイエス。赤ん坊が着せられた亜麻布は死者を葬る時にも用いられる布。イエスは生まれた時から、罪のあがないとして神殿で犠牲の献げ物となる羊や死者との関係が深い生い立ちを持っている。特にイエスがこの世に生まれたことでヘロデ大王によって殺害された無数の幼子の命。イエスがこの世に生を受けた時から死の影が執拗に追いかけていたことがわかる。自分が生まれなければ本来死ぬ必要がなかった多くの命があったことを後で知ったイエスの心中はいかほどであっただろうか。

人の痛みや試練を自分のこととして共有する神の愛

聖書、そしてイエス・キリストを通して神が人類に訴え続けているメッセージとは、すべての命を慈しみ、隣人が少しでも輝き、希望を持って生きることができるように自分の人生を人々に提供して生きること。そのためには人の痛みや試練を自分のこととして共有する神の正義と愛の心が不可欠である。イエスは生まれた時から死ぬ時まで、この一事に努めて生きたと言っても過言ではない。そのために人の痛みと試練を背負い続けたイエスであった。そして最後までその使命から目を反らさず、自分の十字架を担い続けたイエス。

命が軽んじられる世の終わりの時代に生きる私たち。イエスから希望と勇気と力をいただきながらそれぞれの命を全うするものでありたい。

 

2023年12月3日(日) 北九州キリスト教会宣教題
アドヴェント第1週目
「生まれた時から背負った十字架」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。

https://www.youtube.com/live/L5PmW8xRRBY?si=qyIamrMX9lyIxbdn