洪水前の世界① 地上の勇士ネピリム
現代と太古の世界との違いはどこにあるのか
新年を迎え、最初に取り上げるシリーズでは、ノアの洪水物語の前の地上の状態について聖書が語る貴重な内容から学ぶ。
最初は冒頭のわずか4節の中に語られる内容を理解したい。理解の鍵になるのが二つの単語。2節に出てくる「神の子たち」と4節に出てくる「ネピリム」。また、神が3節で人類に対して否定的なコメントをした理由についても理解を深めたい。
神が世界的な洪水によって人類を滅ぼしたことにつながる発端がここにある。世紀末の様相がますます色濃くなって来ている現代に生きる我々にも傾聴すべき内容である。
神の子たちとは
創世記6章1~4節(6p)
1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、
2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
「神の子たち」についての理解は研究者たちの間でも意見が分かれる。神の子をノアへと続く5章の神の御心に忠実だったセツの子孫とし、「人」を神の御心をないがしろにしたカインの子孫とする考え方もあれば、神の子たちを堕天使たちだと解釈するものもある。
私は神の子たちとは、そう呼ばれるのにふさわしい神中心の生き方をしていた人々のことを指すと考えている。その神の子たちが徐々にアダムが誘惑に堕ちたように、自己中心的な人生の選択をして生きるようになっていく「人」の姿を今回の箇所は表現していると受け止めている。人生における代表的かつ神聖な儀式として創世記2章で取り挙げられていた結婚の儀を神の祝福とは関係のない儀式に変質していった当時の妻のめとり方によって表現している。
人間の幸福をつかさどっていた神と共なる生き方が根本から揺らいでいる現実が語られているのである。2節に表現されているように神抜きに「自分の好む者」を自分勝手に妻にめとるようになっていた当時の生き方に問題がある。結婚相手を神の御心を問いながら、相手がどれだけ神に忠実に生きている人物なのかを判断基準に入れず、自分の好みに重点を置き、何をするにも神の御心を除外して生きるように変貌を遂げようとしていた当時の人々の自己中心性が語られているのである。
神の預言と決断
3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。
神の御心を第一に据え、祈りを通して聖霊の導きによって神の御心を実行して生きることを止める時、神の霊(聖霊)は本人の人生から締め出されていくことになる。神の霊を失った人間は生きた屍となる。それが「彼は肉にすぎない」と神が言われた意味である。そして「わたしの霊はながく人の中にとどまらない」と神が嘆かれた意味である。
このことによってアダムからノアに至るまでの世代が千年近くまで長生きしていたのに対し、「しかし、彼の年は百二十年であろう」と神が預言しているように徐々に寿命が短くなっていくことになる。これは神が我々を祝福するために遣わして下さる神の聖霊との関わりを拒絶して生きるからなのだが、否定的な意味合いだけではない。むしろ、神の憐れみだと言える。神は止めどなく堕落する可能性のある人間の寿命を六十年にも三十年にももっと短く設定することもできた。しかし、そうせずに百二十年という神の御心に立ち返って生きる人生を取り戻すための期待を込めた猶予期間を人間に与えられたのである。神は忍耐強いお方なのである。(参考:120年をノアの洪水までの残り時間だと解釈する人もいる)
神の忍耐はまだ続いていることを感謝したい。しかし、これに甘えていてはならない現代の世界事情をわきまえておきたい。その上で本日最後の節に移ろう。
ネピリムとは
4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
ネピリムというヘブライ語は、神をも恐れない武勇に秀でた者達を指す言葉だが、語源は「堕ちた者たち」から来ている。神の子にふさわしい他の神の子との結婚の在り方を捨て、神の子の地位から堕ちて生きる時、平和を造り出す代わりに争いが増えるのは必然である。そして、そこから武勇に秀でた者達が登場するのだが、これは聖書特有の皮肉ではないだろうか。現代にも無数のネビリムが産み出されて世界中で暗躍しているのではないだろうか。
神の忍耐が続く間に
ヨハネによる福音書3章16節
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これをご存じの方も多いであろうが、これに続く17節も重要である。
「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」
神の真意は人類を裁き、滅ぼすことではなく、失望から希望、永遠の殺し合いから永遠の平和に導きたいのである。そのための忍耐は計り知れない。人類は先の世界大戦の時に滅んでいてもおかしくはなかった。あれほど大量の殺人兵器を競って開発し、それらを用いて世界中で殺し合った先の大戦。それ以後も人間社会の繁栄の陰で環境汚染等により無数の動植物が絶滅し続けている。
現代はかつてないほどの貧富の差が生まれ、世界の死因の第1位は病気ではなく、飢餓によるものである。これは人災の面が大きい。これに負けずとも劣らないのが人工妊娠中絶だと言われている。神が定めた結婚の奥義をないがしろにしたノアの洪水の前の時代の人々とどちらが罪深いのだろうかと考えさせられる。それでも、神は人類をまだあきらめておられないのである。
ペテロの第二の手紙3章9節には「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行…すなわち世の終わりの最終段階の実行…をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」とある。
神の忍耐が続いていることを感謝したい。また、イエス・キリストの十字架のあがないと復活により、人には再び神とのあるべき関係を回復させ、聖霊の祝福を受けながら「神の人」として生きる人生を取り戻す希望が残されている。
神のひとり子イエス・キリストこそ人類に希望をもたらした救い主。人類でただ一人、最後まで罪にあらがい、すべての罪の誘惑に完全に勝利されたお方。人類でただ一人、呪いではなく神の愛と平和の中だけに生きられたお方。十字架の上で息を引き取る最後の瞬間まで神と人類を愛し、我々が神の忍耐と愛を裏切り続けて滅びに向かっている現実に気づき、罪を悔い改めて神の子となる希望の中に生きるよう祈られた救い主。
ノアの洪水前の人々はこの神の愛と忍耐と希望を軽んじて滅びに至った。現代に生きる我々はここから学び、神の忍耐が今日まで続いていることを心から感謝し、ますますこの福音の中に一人でも多くの人を招き入れる教会となっていきたい。
2024年1月7日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「洪水前の世界①地上の勇士ネピリム」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/Wday_HlsoQ8?si=7JZZ5ze8q5poYIWE
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