創世記の贖罪① 手作りの毛皮の服

創世記の贖罪

今年は2月14日(水)から受難節(レント)が始まり、3月24日(日)に受難週、そして翌週31日(日)がイースター礼拝である。それにふさわしい宣教シリーズとして今月は創世記に登場する贖罪関連のみことばに聞いていく。

贖罪(しょくざい)」という言葉は、出エジプト記25章で「贖罪所」という言葉で初めて登場する。贖罪所は十戒が納められている「契約の箱」が置かれる最も神聖な礼拝の場所である「至聖所(しせいじょ)」と区別する必要がある。贖罪所とは契約の箱(あかしの箱と同義語)の箱の上の部分と、その箱の上に「ケルビム」と呼ばれる翼を広げた二対の向かい合う天の生き物の像の間の空間のことを指す。そこから神が語られるからであり、そこに大祭司が年に一度だけ犠牲の羊の血を注ぐことによって、イスラエルの民全体の罪の贖いの儀式を行うのである。

聖書は始めから一貫して、「神が人類の罪を贖(あがな)おうとされている」ことを主張していることを確認していきたい。その最初の箇所を今回取り上げた。それは最初の人類であるアダムとエバに対して神がなされた罪の贖いの業であった。

聖書が強調する(神に対して犯す)7つの大罪とは

創世記3章1-7と21節(3p)

1節 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」
2節 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3節 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」4節 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう5節 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」6節 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた

聖書には二つの罪の概念がある。一つは人類が神に対して犯す根源的な罪を指す。もう一つは日常的に人間が法律を破るなどして犯(おか)す罪を指す。聖書で繰り返し問題にしているのは神に対して犯す罪。それをわかりやすく物語形式で語るのが今回の箇所。
アダムとエバの罪とは、①神の言葉に背く罪(食べるなと警告された神)。同時にそれは②神の言葉以外のものに信頼を置く罪。神が「食べると死ぬ」と言った言葉よりも、へびが「食べても死なない」と言った言葉を信じたこと。こうして神の言葉をへびの言葉以下に扱い、③神の言葉を最優先にしない罪を犯したアダムとエバであった。彼らは④神の言葉を軽んじる罪を犯し、⑤神の言葉に従わないで生きる選択をする罪をしたのである。そして、⑥神が定めた基準に従わずに生きても平気だと思い上がる傲慢の罪なのである。それは結果的に⑦神の目に正しく生きることを拒否し、自らの人生を呪う罪を犯すのに等しいと警告しているのである。
神の言葉に従うことこそ祝福であり、神に命を与えられた目的そのものだと聖書は語る。我々は神に対して犯す罪を決して軽んじてはならないと聖書は時代を超え、全人類に警告しているのである。聖書は続いて罪がもたらす「」について語るのである。

「罪の支払う報酬は死である。」ローマ書6書23前半

7節 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた

この短い節には、神に対して罪を犯す者がどのように死ぬ存在に変わり始めたかが表現されている。
「目が開け」とは、神に対して、絶対にしてはならないことをしてしまった自覚が生じたことが表現されている。しかもそれだけではなかった。彼らはただ罪を自覚しただけではなく、体に変化が生じて、神の御前にその罪は裸同然であることが実感できるようになったことが表現されている。
特にそれは腰の部分に強烈に作用したと聖書は語る。そこに彼らが犯した罪に対する羞恥心が集中したのである。特に子どもに多いと思われるが、緊張した時や恥ずかしい思いをした時に、腰と腹部に違和感を覚え、もじもじしてしまう現象が起きることを我々も経験するのではないだろうか。初めての体験をしたアダムとエバにとって、それが恐怖ですらあったことは容易に想像できる。

そこで彼らはすぐに腰の部分を隠す行動を取った。聖書に最初に登場する植物名、それは「いちじく」であり、その葉を用いて急場をしのいだのである。罪を犯した人間は自分の犯した罪を隠したいとの衝動に駆られる習性があることもここで表現されている。

神に対して罪を犯した者は、肉体的に死んでいくようになるだけではなく、霊魂が死んでいくことを意味する。神に自分のあるがまま(これが「裸」の意味)を見せることができなくなったアダムとエバで表現されている。
自分の罪をごまかし、あるいは責任転嫁し、もはや神に対して正々堂々と向き合うことができなくなってしまうことである。罪の支払う報酬としての「死」、それは神との健全な関係が決定的に破壊されてしまうことを指しているのである。我々に例外なくいつかは訪れる肉体的な死の本当の恐ろしさも実はここにある。霊の世界では罪は隠せない。アダムとエバが急場しのぎに用いたいちじくの葉は死後の世界では通用しない。全ての罪が裸同然にさらされるのは、まさに生き地獄なのである。神に対して犯した罪を解決しないままにしておく問題性は極めて大きいと警告しているのである。

「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ書6書23後半

創世記3章21節 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

人類は神に感謝する以外にない。神は絶望に陥ったアダムとエバに救いの手を差し伸べたのである。神は自らの手を血に染めて、神自らの命に等しい、こよなく愛する生き物(自分の命そのもの)を犠牲にすることによって、命が尽きていく現実を彼らの目の前で実体験させたのである。

その時、神はどんな気持ちでその生き物(子羊?!)を殺し、手を血に染めながら時間をかけて彼らのために毛皮の服を作ったことであろうか。その服を着せられた時に彼らが実感した罪の赦しと平安はいかほどであったか。同時に理解した神の命に対するたぐいまれな愛情。どんな命も滅んでほしくないとの神の愛の深さ。さらには彼らの罪を贖うために払われた命の代償の大きさに深く反省させられたことであろうか。これが聖書に登場する最初の贖罪である。

アダムとエバのように神の子・イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、受け取ることによって、霊の体に着ることが許される(罪とその呪いから解放されて、その恐怖から救われる)霊の服が存在する。現代の我々にはイエス・キリストが与えて下さる罪の赦しと永遠の命を象徴する神の命で贖われた霊の服こそが希望なのである。

2024年2月4日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「創世記の贖罪①手作りの毛皮の服」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/52kYhY_BF0I?si=cezKOJwOOQtJXHEn