創世記の贖罪② 神の印

創世記の贖罪

今週の2月14日(水)から受難節(レント)が始まり、3月24日(日)に受難週、そして翌週31日(日)がイースター礼拝である。それにふさわしい宣教シリーズとして今月は創世記に登場する贖罪関連のみことばに聞いていく。

聖書は始めから一貫して、「神が人類の罪を贖(あがな)おうとされている」ことを主張していることを確認していきたい。その2番目の箇所を今回取り上げた。それは最初の人類であるアダムとエバの初めの二人の兄弟カインとアベルの間で起きた殺人罪を巡る2種類の贖いの業であった。弟アベルと神が果たしたそれぞれの贖いの業に学んでいく。

神の贖罪に学んだアベル

創世記4章1-16節(4p)

1節 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2節 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3節 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4節 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた

カインとアベルは事実上、出産によって生まれた最初の人類である。この二人がどのように育ったかは詳しく語られていない。しかし、聖書は短い解説の中で重要なヒントを提供している。兄を差し置いて、弟アベルがついた職業が強調される形で先に語られる。聖書で最初に登場する哺乳類「羊」を飼うのである。なぜ、アベルが唐突にこのような新たな職業に就いたのか。
読者は3章でアダムとエバの贖罪のために神が自らの手を血に染めた動物が何であったかを想像する時に、理由を思い当たることになる。アベルは神の贖罪を理解した。そして、かつて犠牲となった羊を愛情を込めて育てる仕事に就くことによって、神の模範に習い、子羊を神に捧げたのである。

神のあがないの業を理解できず、神と自分の人生を呪ったカイン

5節 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6節 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7節正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」

一見カインは何も悪くないかのように読むこともできる。しかし、6節の言葉は、カインが神に対して正しい礼拝をすることができなかったことを明らかにしている。人の内面まで見通す神は、カインが神に感謝の心ではなく、人生に対して不満や怒りの感情を向けていたことを見ぬいていた。そして、カインの心に渦巻く不満が間もなく形となって表に現れる可能性があることを理解していた。そうなる前に、神はカインに罪の誘惑に抵抗し、克服することが不可欠だと諭そうとした
聖書は、罪の誘惑というものは、心の中で始まるものの、それが実際の行動に出てしまうまでは、神に明らかに背く罪ではないと語るのである。神は心の中に巣食う罪の根っこがあっても、それを克服して生きることを励まされるお方である。この物語には、神のカインへの類まれな導き、忍耐と深い愛情が表現されているのである。

神の言葉と向き合えなくなっていたカイン

8節 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9節 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。10節 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。11節 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。12節 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。13節 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。14節 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」

神の愛情の籠った言葉はカインには届かなかった。彼はとうとう行動に移してしまう。それでも神は直ちに彼を有罪とせず、忍耐を見せる。神は自らの罪を悔い改める機会を与えられた。しかし、カインの返事は痛ましい。「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
神との距離が決定的になりつつあるカインの言葉であった。神はそんな彼に怒りよりもアベルの神への最後の「叫びの祈り」について知らせる。「あなたの弟の血(命)の声(魂の叫び)が土の中からわたしに叫んでいます。」
聖書は具体的な内容には触れていないが、明らかにアベルは自分を殺した兄を呪っていないのである。自分と家族の罪をあがなわれる神を日頃から心を込めて礼拝しているアベルに、どうして兄を訴えて、復讐や罪の裁きを求めることができるだろうか。

この時のアベルの叫びは、人類の罪をあがなうために十字架に掛けられたキリストの最後の叫びの言葉とむしろ重なり合う。マタイ福音書27章46節「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。ルカ福音書23章34節「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。同じようにアベルは神にカインが正しい道に導かれるように罪の贖いを祈ったと考えられるのである。

神の印

15節 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。16節 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ

カインは神の忍耐と愛を理解せず、罪の誘惑に身を任せてしまう。それが世界で最初の殺人事件として表面化してしまうのである。その後の神との会話では、彼は自分が呪われ、復讐されてしまうことを怯えるようになっている。神の愛に基づく裁きの言葉も、彼には耐えがたい極刑のようにしか受け止めることができなくなっている。罪の影響下に自分を置く時、ますます自分も他人も愛せなくなると聖書は警告している。

しかし、神は最後までカインが陥ってしまった悲惨な現実に救いの手を差し伸べようとされる。神はなおもカインを守ると約束して下さる。しかも、特別な印をカインの額に付けて保証して下さるのである。それはどんな印だったのか。
私は十字架の形をしていたのではと想像する。これは神がアベルの執り成しの祈りを聞かれたからではないだろうか。これが贖いの力、そして罪を贖われた者が発揮できる祈りの力である。信仰によって、私たちもこの力と印をイエス・キリストからいただき、実践できることを感謝したい。

2024年2月11日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「創世記の贖罪②神の印」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/wJ2jbXXOoFQ?si=wI-DOEBS3aA84dEk