創世記の贖罪③ 身代わりの羊
創世記の贖罪
今月2月14日(水)から受難節(レント)が始まり、3月24日(日)に受難週、そして翌週31日(日)がイースター礼拝である。それにふさわしい宣教シリーズとして今月は創世記に登場する贖罪関連のみことばに聞いている。
聖書は始めから一貫して、「神が人類の罪を贖(あがな)おうとされている」ことを主張していることを確認していきたい。その3番目が今回取り上げた箇所。それは信仰の父と称されるアブラハムと息子イサクとの間で起きた贖いの業であった。アブラハムと息子イサク、そして神が果たしたそれぞれの贖いの業を見ていく。
人生において失敗を繰り返したアブラハム
創世記22章1-6,9-14節(25p)
1節 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。2 節 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
22章の出だしは、神がアブラハムの信仰を試みた過酷な内容となっている。100歳になって待望の跡継ぎが奇跡的に夫婦の間に与えられる。それにも関わらず、「あなたの愛するひとり子」と知った上で、子どもを当時のカナン地方の風習に習って犠牲として捧げよと告げるのである。もちろん、神は本当にはそのようなことをアブラハムにさせたいわけではない。むしろ、そんな悪習慣があったカナン地方の風習を根絶したいと願っておられる神である。
いくら本気ではなかったとは言え、神はなんとむごいことを指示するものかと思ってもしかたがない場面である。しかし、実はこの章に入る前の伏線が存在する。1節冒頭に「これらの事の後」という言葉がそれを示唆している。つまり、この章で神がアブラハムに過酷な言葉を掛けさせることとなるアブラハム側の問題が存在する。
それは、神に信頼し、祈りながら重要な決断を下す代わりに、自分の常識や直感を信じて行動してしまう神不在の自己中心的な生き方に時々舞い戻ってしまうからであった。無論彼は度々祭壇を築いて神を礼拝し、神のみこころを伺っている。しかし、大きな失敗をする時は大抵祈って神に伺いを立てなかった時なのである。
特に12章では彼が寄留していた土地に飢饉があった時、神に伺いを立てずにカナン地方からエジプトに移動してしまう。そして命の危険を感じたとは言え、サラが妻であることを隠した結果、エジプト王家に妻を召し抱えさせられるはめになり、激しい疫病が流行する原因となってしまう。
20章でも彼は同じようにカナン地方を離れ、アラビア半島のゲラル地方に滞在し、再び同じ過ちを繰り返し、ゲラル王と家臣の妻たちが妊娠できなくなる災いをもたらすことになる。二度とも神に伺うことなく、命欲しさに自分の妻を他の王の側室に差し出すような愚行が招いたことであった。アブラハムの不信仰が他人の家族の命を脅かしたのである。そのため、神はサラが他国の王の側室にならないようにするために災いを降さなければならなくなったのである。
12章2-3節で「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。と神が彼に与えられた約束どおりになるのである。
信仰に立った時は、行動に移すのが早いアブラハム
3 節アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。4 節三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。5 節そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。6 節アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
アブラハムが信仰の父と呼ばれるようになる理由の一つは、先に述べたように失敗を繰り返しながらも、神に導かれて信仰を次第に強めて行ったためであろう。失敗しつつ成長する姿が多くの人の共感を呼ぶ。
そんなアブラハムのもう一つの特徴は、神の指示だと確信した時はすぐに行動に移すところである。今回の神のご命令は、過去の自分が繰り返し犯したエジプトやゲラルでの他人の命を脅かした罪の報いなのではないか。そう考えながら道中様々に黙想していたのではないだろうか。そして、息子を神に捧げたら、自分の命も神に犠牲としてお返しする覚悟を持っていたのではないか、などと想像する。神の導きの中で自分の罪を自覚していく者は、次第に信仰を強くされるのである。
アブラハムが到達し得た自覚と信仰に我々も近づくことができる
9 節 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。10 節 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、11節 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。12節 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。13節 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。14節 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
いざアブラハムが息子を刃にかけようとした時、神はすかさず彼を止める。この試練には神の側の特別な目的があったことが告げられる。また、神の側で別の燔祭が用意してあったことを知る。「角をやぶに掛けている」身代わりの雄羊が備えられていたのである。
その羊は頭から血を流していたと想像する。十字架に掛けられる前にイエスが茨の冠を被せられ、頭から血を流しておられたように。また、抵抗せずに従順に父の手に自分の命を委ねた息子イサクの姿にも、父なる神の御手にご自分の命を従順に委ねた主イエスの姿が重なり合う。「人類の罪を贖(あがな)おうとされている」神がおられる。そのためには自らを犠牲にされる神の姿が繰り返し語られる。そうせざるを得ないのは、それほど私たち一人一人を大切に思っていて下さるからである。
イエス・キリストに命贖われた者は、身内や他人からどんなにひどい言葉や評価を受けたとしても、動じてはならない。あなたが生きる資格がないとか、生きているだけで人の害になるだとか、存在そのものが間違いだとか、罪を何千何万回懺悔しても決して許されはしないとか、その他どんな言葉であなたのこれまでの努力、傷ついてきた人格を無視した発言を浴びせられたとしても、イエス・キリストがそのすべてを十字架で負って下さったことで、既に罪が贖い済だと言うことをアブラハムのように自覚して生きることが大事なのである。
2024年2月18日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「創世記の贖罪③ 身代わりの羊」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/xOxKtGcw-Pw?si=6phVmOsZ-BxLSwxp
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