受難予告① 指導者達による殺害
イエスの3度の受難予告
どの福音書にもイエスが3度受難予告をしたことが記されている。マタイによる福音書では、16章、17章、そして20章でそれらを取り上げている。それらはいつどのような状況の時に話されたのか。また、それぞれの受難予告には違いがあるのか。
今月24日に受難週を迎え、31日はイースター礼拝となる。この機会にイエスが繰り返し受難予告をした理由について理解を深めていく。今回は16章全体を視野に入れながらイエスの受難予告を共に考えていく。救いの概念がさらに豊かにされることを期待して。
パリサイ人とサドカイ人
第16章は、パリサイ人とサドカイ人がタッグを組んでイエスが神からの使者であることを証明するしるし、すなわち奇跡を自分たちの前でしてもらいたいと要求する会話から始まる。
パリサイ人は死後の復活はあるとする立場、サドカイ人は死後の復活などないとする立場であった。その多くはサンヘドリン(ユダヤの最高議会)のメンバーを構成する人々で、常日頃からお互いにライバル視していた。そんな彼らが、民がうわさするようにイエスが預言のメシヤ(キリスト)なのかどうかを探るという一点で協力したのである。
イエスは4節でヨナ書を引用し、ヨナが大きな魚に食べられ、常識なら当然死ぬところ、三日後に魚の腹から吐き出された話しに注目するように促した。この時点ではイエスを十字架につけて殺すことになるのは自分たちであることを知る由もなかった。そして、彼らも民衆も、弟子たちもキリストが果たす真の役割を理解していなかった。なによりも、キリストが死ぬことになることを理解していなかったのである。そのため、ニネベの住民を滅びから救う宣教を開始する前に、ヨナが死を余儀なくされたが、奇跡的に死の淵からよみがえった話をしたのである。
キリストもまず死んで復活するという順番があることを明らかにしているのである。こうして、次の13節からの弟子たちとの対話へとつながっていく。
弟子たちとのキリスト問答
イエスは最終目的地である南のエルサレムに向かう前に、敢えて北の異教の地へと旅をし、弟子たちとの時間を大切にされた。そこでイエスは自分が果たすべきキリストとしての役割を説明することになる。それは弟子たちが想像し、期待していたものとは違っていた。
イエスは弟子たちに人々や彼ら自身がイエスのことをどんな存在だと考えているのかと問うた。これに対し、ペテロは16節で「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。と答えている。しかし、それを人々にまだ公言しないようにと口止めする。それは弟子たちも含めて、だれもまだ「生ける神の子キリスト」の真の役割を理解しておらず、むしろ「死なずに世界的名声を受けていく➡生ける神の子キリスト」像しか持ち合わせていなかったからであろう。
イエスは弟子たちにまだ「自分がキリストであることをだれにも言ってはならない」と念を押したうえで今回の中心聖句である21節となる。
第1回受難予告
マタイによる福音書16章21節(26p)
21節 「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」
イエスがここで自分を殺すことになると預言している「長老、祭司長、律法学者たち」について今回は焦点を充てる。彼らこそ、冒頭で説明したパリサイ人とサドカイ人の主な職業である。ここで注目したいのは、彼らがイエス・キリストに多くの苦しみを与えて、殺すと預言していること。三回続く受難予告の内、彼らから多くの苦しみを与えられると預言しているのは今回だけである。
そこで、彼らから受ける多くの苦しみとは具体的に何であったのか、理解を深めることが今回の勘所となる。彼らは民の間では指導者階級の人々であった。ユダヤ教社会では、指導者たちは当然のこととして聖書に精通していることが求められていた。また、聖書をだれよりも守っていることが求められていた人々である。聖書を普段から実践する生きた模範を示していたから尊敬されていたと言える。その彼らがイエスに与えた「多くの苦しみ」の本質とは何であったのか。これを掘り下げる時、私たちに関係あるものとなっていく。
イエスは最も理解されるべき人々に理解されなかった。信頼されず、陰口を言われ、神の教えに不忠実で、生活態度に問題があると言われ、共に生きる価値がないと最終的に判断されたのである。世の中で最も尊敬を集めている人々からこのような判断をされたら、どれほど苦しいだろうか。普段から立派な行いと実績を示している人々から共に生きる価値なしと見捨てられたらどれほど苦しいだろうか。最後には、死んだ方が世のためになるなどと言われ、存在そのものが社会の害悪でしかないなどと思われたら、どんなに苦しいだろうか。
しかし、イエス・キリストはこのような判断を下される側に立つためにこの世に生まれて来たのである。そして、そのような現実とどう向き合い、これを受け止める生き方があるかを私たちに示すために十字架を背負い、命の続く限り宣教された救い主なのである。
キリストが背負った十字架の真の姿とは
今回のシリーズでは引き続き、キリストが背負った十字架の本質を深く探っていくことになる。この世は自分の権利を強く主張し、その権利が侵害されると猛反発する。そして、その権利を踏みにじる人々を排除しようとする。権利を正義と置き換えてもいい。
イエスの存在が律法学者やパリサイ人たちにこのように受け取られた時、十字架に向かうことになったのである。この問題性は非常に大きいにも関わらず、私たちにはわかりにくく、その本質は見えにくい。だれもが常識のように考え、受け入れている価値基準がイエスを十字架にかけたと等しいからである。
イエスが十字架にかけられた時、次のように人々からも、指導者たちからもイエスに向かって発言したと書かれている。27章40節 「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。42節「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。」。
最も聖書に精通し、実践している人々に殺されたイエス。一番身近な弟子たちに裏切られ、見捨てられたイエス。なせこのようなことが起きたのか。私たちも主イエスに対して同じことを繰り返してはいないか。もう一度この機会に振り返りたい。イエスを十字架につけたのは、私の権利や正義をイエスに押し付けたせいではなかったかと。
この後24節でイエスは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」と言われた。
改めてこの言葉の意味を引き続き黙想していきたい。この先に、復活されたキリストが待っておられるのだから。
2024年3月3日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「受難予告① 指導者達による殺害」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/zr2TQncIhZ8?si=8-uwB33z-ce30Mw-
-
前の記事
創世記の贖罪④ 引き裂かれた衣 2024.03.03
-
次の記事
受難予告② 見捨てられる苦しみ 2024.03.22