受難予告② 見捨てられる苦しみ

マタイによる福音書17章22-23節(28p)

三度の受難予告の目的 

マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜだったのか。弟子たちにどんな目的で語ったのか。どんな内容を理解して欲しかったのか。今回のシリーズの興味はそこにある。
マタイ福音書の16章、17章、そして20章に書かれているそれぞれの受難予告を比較検討していく時、そこに違いが存在することに気づく。そして次第にイエスの真の意図が見えてくる。24日に受難週、31日にイースターを迎える今だからこそ、共に理解を深めておきたい。

前回と今回の相違点

まず、下線部分に注目しながら両者の違いを黙想していただきたい(同じ番号どうしを比較されたい)。すると、明らかに相違点があることに気づく。

◆前回)16章21節「①この時から、イエス・キリストは、②自分が必ずエルサレムに行き、③長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け殺され、そして三日目によみがえる⑤べきことを、⑥弟子たちに示しはじめられた

◆今回)17章22~23節「彼らが①ガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、
「②人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえる⑤であろう」。⑥弟子たちは非常に心をいためた

①前回の場所はイスラエルから国外に弟子たちと旅をしていた時、今回はイエスと弟子たちの生活拠点であるガリラヤでのこと。ただし、いよいよエルサレムに向けて旅立つ直前の場面。
②前回は一人称「自分」のこととして語っているが、今回は三人称「人の子」と客観的な表現が使われている。
③前回は宗教指導者たちから受ける苦しみが強調されていたが、今回は範囲を広げた「人々」になっている。
④前回は多くの苦しみを受けることが強調されていたが、今回は人々の手に「渡される」ことが強調点として語られている。
⑤前回は受難と復活が必ず実現しなければならない神の御心であることが強調され、今回は「人の子」が果たす役割が強調されている。
⑥前回は弟子たちが第1回目の受難予告を聞いてどう受け止めたかは語られていない。今回は弟子たちが「非常に」心をいためたと強調している。ここにどのような違いとイエスの側の意図が存在するのだろうか。

「イエス・キリスト」か、「イエス」か

①のすぐ後にもう一つ特徴的な違いが存在する。前回は「イエス・キリストは」で始まるのに対し、今回は「イエスは」で始まる。イエスご自身も律法の一点、一画が大切だと教えられた(マタイ福音書5章18節)。ならば、今回のように言葉の微妙な表現の違いを無視せずに検討することも許されるはず。今回の箇所を理解する鍵になるのがこれら二つの言葉の違いなのかもしれない。
前回は神が託した人類の救い主=キリストとしての使命を強調する説明であるのに対し、今回は、生身の肉体(人間としての限界)を持つ者とされた「人の子」が強調されている。前回確認したように、弟子たちも含め、だれもがむしろ「神の子」でイメージされる絶対的な権力を持つ救い主を待ち望んでいた。そして自分たちを諸外国から救い出して独立国としてのイスラエルを取り戻してくれるダビデ王のような指導者・救い主を求めていた。そのため、今回は弱さと限界を身に負う使命を神から託されている「人の子」を強調する必要があったのであろう。

弟子たちが非常に心を痛めた理由

イエスが主張するような救い主などだれも求めていない。だれもが絶対的な王者にあこがれる。そして、誰もが認めざるを得ないような突出した実力や能力があるからこそ、上に立って多くの人の指導者、王になるのにふさわしいと考える。

しかし、旧約聖書の物語を知っている者は、神がイスラエルに王を立てるのに反対していたことを思い出すことと思う(サムエル記参照)。王を立てる時、権力が生まれ、それが戦争につながることを神は知っておられた。しかも、最大の問題は人々が神ではなく、王をあがめる過ちを犯すようになることを見通しておられたのである。

いつしか人類は人より能力があること、実力があること、地位が高いことが人の存在価値そのものと同列であるかのように間違って認識するようになったのではないだろうか。しかし弱さ、限界を持っている人も、神の目には等しく尊い存在なのだという聖書の福音。これが見えなくされている人類。イエスはそこに鋭くメスを入れる救い主なのである。人類の過ちを象徴する十字架を負うイエス。それが神から遣わされた救い主なのである。それを理解できないままでいた弟子たち。自分たちの夢、実現したい世界とはあまりにもかけ離れたことを主張するイエス。そのため、非常に心を痛めた弟子たちの現実がここで語られる。それは、私たちに投げかけられている問でもある。私たちはキリストの体なる教会に何を求めているのか。自分の慰め、癒し、励ましになることか、それとも神への感謝と応答か。

私たちに問われていること

世の中は人の評価や人に認められることにどれほど躍起になっていることだろうか。しかもこれを必要以上に要求する。そして、この現状に疲れ切ってさえいる。イエスの教えとは正反対である。真のキリスト者は人の評価に左右されない人である。人のいかなる言動によっても自分を見失うことがない。しかも現状を変えることも、自分を変えることも、だれかを変えることも神から求められていないことを知っている。そのための努力も求められていない。子どもが親に愛されるために努力することなど求められていないのと同じである。ゴールを達成したら認められ、愛される資格を獲得するのではない。子どもだから愛されるのである。失敗、弱さ、限界を負っていても愛され、受け入れられているのである。

同じように、だれも教会ではこうすべきだと強制されない。献金も、奉仕も強制されない。それらは自発的に行い、神への感謝を捧げる手段として存在する。義務ではない。礼拝とは日曜礼拝の時間のことではない。主の日という24時間、また人生をイエスは聖別するように模範を示された。私たちは主の日を感謝の日、応答の日として神に自発的に捧げる。

神が喜ばれる礼拝

イエスは「自分の十字架を負って私に従って来なさい」と言われた。また「人にはできないが、神にはできる」と言われた。一緒に死ぬように招かれるイエス。肉体的に命を絶つことではない。一切の自分のエゴと人の評価を十字架につけよと招いておられる。それは簡単ではない。不可能に近いことであり、人間の能力を超える。しかし、十字架の死と復活を通して、それを実現した人の子であり、神の子であるイエス・キリストが私たちを待っておられる。「あなたの出番です。不信仰で無力な私をお助け下さい。」この謙虚な祈りのあるところにいつでも聖霊を遣わすことが神の喜びである。そして、そこに真の礼拝が確立する。

 

2024年3月10日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「受難予告②見捨てられる苦しみ   」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/rnuL27PIrJs?si=lKwfTuLR2w-ogyn8