荒野の誘惑・後編

 イエスの宣教の原点

新年度を迎え、マタイによる福音書からイエスが成し遂げようとされた宣教(神の意志)に耳を傾けていく。最初は宣教の原点となった宣教開始直前の荒野での40日間の断食祈祷での出来事。命が危ぶまれる極限状態で導き出した結論の一つが、十字架に照準を合わせて宣教に臨むことであった。人の関心や信用を得るために奇跡や巧みな人心掌握術に頼らないと腹を決めたイエス。神の愛に基づく聖書の実践。それ以外の宣教を放棄すると決意した。それを悪魔に対して『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と表現した。それで引き下がらなかった試みる者=悪魔の残り2つの誘惑、後編はこれらを扱う。

悪魔の常套手段

マタイによる福音書4章5-11節(口語訳4p)

4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて4:6 言った、 「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを 手でささえるであろう』と書いてありますから」。

二度目に聖書の言葉を持ち出して誘惑した悪魔の狙いは何か。今度の舞台はイエスが最も安らげる神殿の宮での挑戦。これが幻なのか、現実なのかは問題ではない。人の心の隙間に巧に入り込む誘惑者。悪魔はいずれ教会の至る所に攻撃をしかけ、腐敗を導き、神殿を汚すことさえ預言されている。イエスもそれを承知している。イエスが歩もうとしていた十字架を背負い続ける道は、神への異次元の信頼と忍耐と祈りを必要とする。極限まで信仰が試される。茨の道を覚悟していたイエスを挑発するような誘惑者の言葉である。

悪魔は聖書の内容を知っているが、服従する意志を持たない。むしろそれに抗うことを選択して生きているすべての人を代表する。悪魔はかつて人類最初の夫婦であるアダムとエバを誘惑することに成功した。そのために神の激しい裁きを招いた。しかも、「彼(キリスト)はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼(キリスト)のかかとを砕くであろう(創世記3章15節)」との預言まで言い渡された。その預言の通りに十字架にイエスを磔(はりつけ)にし、釘でかかとを砕くのは悪魔の本願であり、神のお墨付きの預言である。誘惑者が引用した聖句はこれを皮肉った言葉であった。悪魔はイエスの手の内をすべて知っていると息巻き、これから十字架まで続く道のりが想像以上に過酷であると脅迫し、3つ目の誘惑の布石とした。しかし、イエスは淡々と聖書の言葉で返答する。

4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

悪魔の最終手段

4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。

この世のすべての国々とその栄華が見渡せる非常に高い山など、この世に存在しないことは誰もがすぐに理解できる。ここでもそれが現実のことかどうかは問題ではない。悪魔が何を提案しているかが決定的に重要となる。

悪魔はこの世界の到達し得る最高レベルの科学技術の発達した未来、そしてこれまでにない平和な世界をイエスの前に描いて見せたのではないだろうか。この世のだれもが夢見る世界がそこにあり、人類を苦しめて来た戦争も、飢餓も、貧困も解消された世界。命を犠牲にする価値がそこには存在した。

イエスの時代の人だろうが、現代社会の人間だろうが、このような世界が生きている間に実現するならどんな犠牲も厭わないのではないだろうか。これを提案しているのは、実際にこれを実現し得る知恵と能力を兼ね備えた存在だった。悪魔は駆け引きの天才である。それが実現しなかった数千年続いた歴史と現実を突きつけてイエスに妥協を迫った。

ひれ伏してわたしを拝む」とは、神に反旗を翻すまでは大天使の一人に数え上げられたほどの実力者である悪魔に頭を下げて協力を仰ぐことに他ならない。神が拒否し、遠ざけた存在と一瞬でいいから手を組む。それが悪魔が求めた唯一の条件。「目的のために手段を選ばず」という言葉が思い浮かぶ。その目的が崇高であればあるほど、魅力的であればあるほど、この問いは我々を引き付けるに十分ではないだろうか。もしかすると、この提案を拒否したことを聞く者の中には、イエスこそ人類を見捨てたと誤解する者も出るかもしれない。事実、イエスにはその気になれば、民衆を率いて当時のイスラエルをローマ帝国の支配から完全に独立させることは可能だったのではないかと想像する。そうすれば、ダビデ王とソロモン王とで築いたイスラエル黄金期以上の平和と繁栄を実現できたのではないだろうか。

悪魔の罠

ここまであれこれと検討を重ねていく時、そもそも神はなぜこの世界の差別、抑圧、戦争、飢餓、貧困等を見過ごしにしているのかという疑問も出てくる。まるで悪魔こそがこの問題に終止符を打とうと神の子イエスに救いの手を差し伸べているような錯覚すら覚える。ただし、この罠にはまってはならない。現在までの現状をもたらした張本人は悪魔である。また、悪魔にイエスに見せたような世界を実現する力があるのなら、悪魔こそイエスの協力を仰がずともその世界を実現すべき立場にある。むしろ悪魔こそが世界の安寧秩序を人質にイエスに妥協を促しているのである。

イエスの選択

4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

この世の問題を突き詰めると、この結論が神に喜ばれる選択だと理解したイエス。人間は悪魔が提案したような世界を築き上げるために創造されたのではない。自分や家族の幸福を追求することも生きる目的とはならない。自分や愛する者達の人権と平和を実現することもこの世に生まれた目的ではないことをわきまえなければならない。これらはすべて悪魔が目を向けるようにイエスに誘惑した事柄である。

悪魔の誘惑の本質は振り返ると、一時的にでも神から目を反らすことにある。イエスの選択は『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』であった。神に誠心誠意お仕えするのに大義名分は必要ない。際立った才能なども必要ない。神への真心と信頼こそがカギである。そもそも、神の側が我々を信頼してこの世に送って下さった。その使命を最後まで忠実に果たした者達にイエス・キリストが待つ天国で真の幸福を与えるために。この覚悟を持つ者に聖霊(誘惑に勝利したキリストの霊)が最後まで人生を導いて下さることに感謝。

2024年4月14日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「荒野の誘惑・後編」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/h4mxjkAGCVs?si=4TGkvlb39k5atMlR