最初の弟子たち
ガリラヤでの宣教開始
マタイによる福音書4章18-22節(4p)
4:18 さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
いよいよイエスの宣教活動に直結する箇所に入る。その手始めがイエスと一緒に手足となって宣教活動を展開する弟子を勧誘することだった。マタイはあたかもこの場面が最初の四弟子との初対面であるかのように表現している。しかし、この四弟子の一人が書いた「ヨハネによる福音書」を読むと、最初にイエスと出会ったのは当初はバプテスマのヨハネの弟子であったヤコブの弟ヨハネとペテロの弟アンデレである。イエスの弟子になる前に、彼らはイエスのことを知り、ある程度その人物と教えに触れていたのである。
クリスチャンになるということ、イエス・キリストの弟子になるということは、勢いだけで自分の人生をかけることではない。イエスについての知識が増すことと、イエス自身との交わりを通して直接イエスを知ることとは違う。彼らにも、イエスを客観的に観察する時期と親密に交わる期間があったのである。その上でイエスは一人一人を招かれるお方である。
人間をとる漁師
4:19 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 4:20 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
イエスが最初に弟子にしたのが二組の漁師の兄弟であった。彼らを招くにあたってのイエスの言葉が興味深い。彼らを「人間をとる漁師にしてあげよう」と言って勧誘した。これはどのような意味であろうか。漁師とイエスの宣教の共通点について、スコットランドが輩出した20世紀の著名な新約聖書学者ウィリアム・バークレー師の「聖書註解シリーズ(教会の書籍棚参照)」では次の点を挙げている。
(1)忍耐強さ…漁はその日の天候や気温、また奇跡等様々な要因に左右される。そのため、様々な工夫をして忍耐強く待つことが必要。伝道や教育も成果をあせらず、また失敗しても落胆せず、忍耐強く目的を達成するまで根気よく取り組む者でなければならない。
(2)勇気が必要…ガリラヤ湖は急に突風が吹いたり、嵐になって湖が荒れることがある。身の危険を覚悟で仕事に取り組まなければならなかった。イエスの弟子も十字架を背負う覚悟が求められた。
(3)時を見分ける臨機応変さ…漁は勝負をするタイミングが大事となる。また、魚によって餌を臨機応変に変えていく。宣教もその時々に応じて臨機応変な対応が求められる。
(4)漁師は自己主張が過ぎてはならない…海中にいる魚に対して餌ではなく、漁師の存在が明らかである場合、魚は逃げていく。宣教においても本人ではなく、イエス・キリストが示されなければならない。巧みな話法ではなく、イエス・キリストご自身が前面に出ることが肝要である。
イエスは、彼らの日頃培ってきた職業的技能が宣教にも生かせることを見ぬいていたのであろう。ユーモアと既知に富んだイエスの人生の方向転換を促す招き方である。
イエスとの特別な絆を紡ぐ第一歩
4:21 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、4:22 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
二組の兄弟とも、イエスの招きに「すぐに…従った」とある。そうする価値があると確信させるイエスであった。イエスの招きに対してペテロとアンデレの場合は「すぐに」網を捨てたとある。彼らの生活の糧である漁師の職業を犠牲にしてイエスの弟子となる。ヤコブとヨハネの場合は所有の舟や同じく漁師であった父の手伝いを後にして「すぐに」イエスに従ったのである。
二組とも何のためらいもなく、また無思慮にイエスに従ったように誤解されがちだが、そうとは限らない。前回説明したようにガリラヤ地方はイスラエルの中でも戦火の影響を真っ先に受ける土地柄であった。だれよりもイスラエルの独立と平和を望んでいた人々である。また、気性も荒い土地柄であった。ペテロはゲッセマネの園でイエスが捕まえられそうになった時に真っ先に刃物で兵士に立ち向かっている。ヤコブとヨハネはボアネルゲ兄弟とのあだ名を持ち、これは「雷の子」という意味である。彼らの気性の激しさが伺えるあだ名である。イエスの招きは、様々な生い立ち、職業、個性のある人々に向けられていく。イエスの招きに応じる人なら、だれもが用いていただけるのである。
背後で支えた家族の存在
一方、彼らは家庭と完全に距離を置いたわけでもない。むしろ、家族の理解と協力を受けながらイエスの宣教に従ったのである。イエスはカペナウムにあるペテロの家に寄っている。そこで寝込んでいたペテロの姑を癒し、彼女はさっそくイエスをもてなしている。弟子たちの中でペテロは既婚者だったこともここで判明する。
ヤコブとヨハネについては母親が十字架の場面に、マグダラのマリヤたちと共にいたことがマタイ福音書27章56節、マルコ15章40節、そしてヨハネ福音書19章25節からわかる。
◆マタイ 27:56 「その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。」
◆マルコ 15:40 「また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。」
◆ヨハネ 19:25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。
これらの情報から、かの有名なマグダラのマリヤの他にヤコブとヨハネの父ゼベダイの妻の名前がマタイとマルコ両福音書からサロメであることが類推できる。そしてさらにヨハネ福音書からサロメが実はイエスの母マリヤの姉妹である可能性もあるのである。もしそうなら、ヤコブとヨハネはイエスの親戚ということになる。ヨハネがイエスから特別に可愛がられた理由の一つもそこにあるのかもしれない。
そして、家業を手伝ってくれていた息子達がイエスの弟子になることを許し、自分の妻さえもイエスの身の回りの世話を手伝わせるために送り出していたヤコブとヨハネの父。だからこそ、ゼベダイの名も福音書に残されたのではないだろうか。
イエスの伝道を支えた弟子たち、そして彼らを支えた家族の存在、4つの福音書から多くの人の関わりが読み取れるのである。我々も、多くの方々の理解と協力の中にあることを感謝しつつ、イエスに用いられていく一週間にしていきたい。主イエスがそれぞれの賜物を用いて下さることに期待しつつ。
2024年4月28日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「最初の弟子たち」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/2ZolAr9848U?si=yzqW9xt5aUe_aaY3
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