山上の説教Ⅱ 平和を創る
前回と今回の内容の違い
前回は最初の3つの幸いを取り扱った。「こころの貧しい人」、「悲しんでいる人」、「柔和な人」は、いずれも我々の心の内面で起きる事柄であった。対して今回の4つ、「義に飢えかわいている人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和をつくり出す人」は、いずれも他の誰かとの関わりが生じる内容になっている。今回はこれを前提に個々の事例に踏み込むと共に、前回同様にそれぞれが次の「幸い」とどのように関わり、発展していくのかを引き続き見ていきたい。
義に飢えかわいている人とは
マタイによる福音書5章6-9節(5p)
5:6 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」
「義」とは辞書に出てくるような一般的な義のことではなく、「神の義」を指す。すなわち「神の御心」とか「神が正しいとされる行為」を意味する。この4番目の幸いは先の3つの幸いを受けて語られている。つまり、「こころの貧しい人」は天の国を渇望するようになり、「悲しんでいる人」は慰められて元気を取り戻していき、それによって「柔和な人」としての人格を形成していく。こうして彼らは与えられた神の救いと恵みを今度は他の人に分かち合わずにはいられなくなる。また、そうあって欲しいと願うのが「神の御心」なのである。
ルカ福音書22:32後半 「…それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。神の恵みに預かった者は、同じように他の人を力づける者となるように期待されている。英語でペイ・フォワードという言葉をご存知だろうか。直訳は「前に支払え」だが、受けた恩は必ずしも本人に返せなくても、次の誰かに親切にすることによってその恩に報いなさいという意味である。
神の計り知れない恵みを体験した者は、その恩をだれかにお返ししたいという義の心に満たされていく。そのため義に飢えかわくことになるとイエスは言われる。そして、神はそのような者たちに神の義を実践する様々な機会を与えて下さるので、「飽き足りるようになる」と宣言しておられる。
あわれみ深い人とは
5:7 「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」
柔和な人格を形成していく者は、憐れみ深い者にもなっていく。自分が神の義を実践し、同時に他の人に憐れみを示すからである。ヨハネ福音書13:14⁻15 でイエスは「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」と教えられた。どちらの教えも見返りを期待する教えではない。主が模範を示された憐れみの実践は、憐れみの連鎖反応を生み出していくのである。
心の清い人とは
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
「神を見る」とは、死んだ後に天国に行った時のことを指すわけではない。7節までの5つの幸いを実践する者は、聖霊の助けに頼って神の御心を実践していくので、心が清められていく。イエスはまたこうも教えられた『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』マタイ福音書25:40後半。
神の御心を実践し続ける者は、対象者の傍らに主イエスがおられることを意識するようになる。イエスを見る者は神を見るのと同じである。心の目でイエスが喜んでおられるのを見て、喜びにますます包まれるのである。
平和をつくり出す人とは
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
ここまでの一つ一つの段階を経て来た者は、神の御心を実現していくためには神の教えを実践することの大切さを理解できるようになる。それと同時に、それを実行に移し、一定の目的を達成するためには、困難や乗り越えるべき障壁があることを理解できるようになる。特に平和などは、ただじっと待っていて実現することはない。人々が協力して創り出すことなしに実現しない。しかも一定の犠牲も覚悟しなければならない場合もある。
マタイ16:24 でイエスが「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」と語られた時、神のみ心を実践する時に一定の犠牲が伴うことを覚悟することを語っているのである。何も戦いを前提にする必要があると言っているわけではない。平和をつくり出すには、知恵と行動と覚悟が必要なのである。時にはイエスが担われたように、自己犠牲も必要になるかも知れない。ただし、もはやこの段階に到達した者は、強制されて実行するのではない。神のこれまでのすべての恵みへの応答として、自発的に十字架を負い、平和を創り出すために最善を尽くすのである。
この段階になると、自分で神の子だと宣言する必要はなくなる。おのずと周りからあの人は「神の子」=クリスチャンだと呼ばれるようになっていく。こういう人はまさしく「幸い」なのではないだろうか。平和は求めるものではなく、創り出すもの。ただし、これまでの7つのさいわいの教えは、正確には「~する人たちは、さいわいである。」とイエスは教えられた。一人では難しい課題も、教会を通して、あるいは家族や仲間の協力を得ながら主イエスの模範に従うことができるのである。
今日はペンテコステ・聖霊降臨日を覚えて全世界で礼拝を行う日である。この日は聖霊に満たされた一人一人のクリスチャンたちがそれぞれに当時の様々な世界原語を語り出した。そこにいた誰もが世界最初の教会による福音宣教に関わったのである。
今週も主イエス・キリストの体である教会の仲間と共に、主の御心を豊かに実践していく者でありたい。そして、主イエスはそのように願う者達に助け主なる聖霊を与えて下さるのである。ハレルヤ!
2024年5月19日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「山上の説教Ⅱ平和を創る」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/35JTxT40RKI?si=A71SpBAyCUUJTFFC
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