山上の説教Ⅲ 負の賜物

山上の説教の三部構成

新約聖書で最初に書かれている説教が山上の説教。マタイは8つないし9つの幸いシリーズとしてこれをまとめている。さらにこれらを大別すると3つの区分に分けることができる。最初は「心の貧しい人」「悲しんでいる人」「柔和な人」。これらの共通点は内面に起きる重大な変化についてであった。マタイは「心の貧しい人=神の愛、励まし、助けを必要としている人」に神の愛と恵みに満ちた天国を与えて下さると励ます。次にその具体的な対象者とは「悲しんでいる人」だと語り、天国こそ慰めに満ちていると語る。そして、これらが三番目の「柔和な人」という人格を形成し、「地を受けつぐ」者になると約束する。「地」とは神の意志を実行し、他の人に継承して生きる者達のことである。

第一部の事柄を通して天国=神の国の慰めを体験した者はやがて元気を取り戻し、感謝が溢れる。そして自らも神の慰めを分かち合う者とされ、第二部の神の意志を実行、継承する具体的な内容が語られることになる。「義に飢えかわいている人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和をつくり出す人」は、いずれもそれを実行する具体的な対象を必要とするものである。もう少し後の6:33に「まず神の国と神の義とを求めなさい。」とイエスが語っておられるように、神の国の祝福を体験した者は神の義を求め、神の義に飢え乾くようになる。つまり、神が御心とされることを自分も隣人に分かち合うように導かれるのである。この世には神の義を実践できる対象は無限に存在する。だから「飽き足る」十分過ぎる対象と出会っていくことになる。次の「憐れみ深い人」は見返りを求めない神の義の実践者を指す。このような人は結果的に相互に憐れみを与え合う連鎖反応を生み出していくことになる。そして義と憐れみに生きる者はやがて「心の清い人」へと清められていき、いかなる隣人の傍らにもおられるキリストが見えるようになっていく。即ち「神を見る」のである。こうなると「平和をつくり出す人」としての人格がいよいよ研ぎ澄まされていく。これこそキリストの僕であり、キリストご自身も人々に言わしめた「神の子」なのである。平和は志を同じくする者達が協力してつくり出すもの、築き上げていくもの。これらを踏まえる時、本日の第三部の内容がより理解できることになる。

過去形が用いられる第三部

マタイによる福音書5章10-12節(5p)

5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである

これまでの7つの幸いを注意深く見ると、イエスが現在のこととして「~のような状況にある者たちは幸いである」と語ったことに気づく。イエスは絶えず現在の私たちに目を向けて下さっているのである。その上で、未来のさらなる神の祝福のご計画があることに目を向けさせ、「彼らは~であろう」と励ましていた。

第三部では「義のために迫害されてきた」と過去形が用いられている。この世ではだれもが神の目に正しいことをしようとして、思うようにいかない経験をする。正しいことをして迷惑がられたり、正しいことを言って嫌われたり、正しいことを主張したために仲間外れにされたり、いじめの対象になるなど、正義は必ず勝つという世の中ではない。いつしか、正しいことであっても、他の人がしてくれそうならば、自分はやめておこうなどと消極的な考えになり、他人の目やまわりを気にするようになってしまってはいないだろうか。こういう人も「義のために迫害されてきた人」だと言えるのではないだろうか。

「義のために迫害されてきた人」とは、拷問を受けたり、イエスのように石を投げつけられたり、十字架にかけられて死刑になる人々だけを言うのではない。目立つようなことではなくても、イエスは私たち一人一人を「義のために迫害されてきた人」と見て下さっている言葉として受け止めたい。そして、一番最初の「こころの貧しい人=神の愛、励まし、助けを必要としている人」について語られた時の結論と同じく、「さいわい」であり、「天国は彼らのものである。」と励ます。

過去とさらなる未来に目を向けさせる第三部

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである

5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである

イエスは最後にクリスチャンに向けて「さいわい」を語る。現代でもクリスチャンだと公言すると、少なからず不利益を被ると感じている人は少なくないのではないだろうか。聖書の福音には感動し、共感していても、正式にクリスチャンだと公言できない人の多くは、やはり大なり小なり「義のために迫害されてきた人」だといえるのではないだろうか。また、実際にクリスチャンであることを公言したためにからかわれたり、偏見で見られたり、仲間外れにされることも少なくない。でも、イエスはそのような者に向けて「さいわい」なり、と励ますのである。

負の恵み、負の賜物

悲しむことも、迫害されることも、本来さいわいであるはずがないと考えるのが世の中の常識。しかし、神の国を知らず、神の国に生きる幸いを体験しないことこそ、本当に憂うべき現実だと聖書は主張する。神の国の福音の中に生きる時、不幸でしかない現実の中に想像を超える感謝と希望が見つかるからである。旧約聖書にも次のような言葉がある。

*ヨブ記5:17「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。」

*申命記8:16「先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。」

神の恵み、賜物には負の恵みや賜物が存在する。そして、12節に「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」とイエスが約束されるように、さらなる未来にはこの地上におけるどんな負の恵み、負の賜物も、決して見落とされることはないばかりか、その報いはさらに大きいと励まして下さっている。今週私たちはどのような負の恵み、負の賜物に気づかされるであろうか。神のみ言葉に生きる時、それらを発見していくことになる。そして、それが新たな神への感謝、礼拝へとつながっていく。

2024年5月26日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「山上の説教Ⅲ 負の賜物」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/usBWcOpyMsw?si=PUgQio5u6FCIDPnr