塩の役割と加減
イエスの次の宣教テーマ
イエスは9つの幸いシリーズを通して神の期待を語られた。私たちがどのようにキリストにあって成長できるかということ。それは「今日」という日から毎回新たに始まる天国、神の国に生きる幸いについてであった。そして、この祝福は将来にまで広がっていく喜びをもたらすものだと宣言された。
その福音を聞いた者たちに次にイエスが語るのは、天の国の住人として自覚しながら生きる時、それがこの世にどのような違いを生むかについてである。私たちが何者なのか、どのような役割を果たすことが期待されている存在なのか。それを教え、その使命に生きるように励ます。それが「地の塩」、そして次回「世の光」でイエスが語る内容である。
「地の塩」とは
マタイによる福音書5章13節(6p)
「あなたがたは、地の塩である。」
イエスは「あなたがたは塩である」とは言わない。「地の塩である」と言われた。9つの幸いシリーズの箇所で理解を深めたように、「地」とは神から与えられている使命を理解して実践し、神の祝福を隣人に継承していく人生・現場を指す。そこでイエスは「地の塩」として隣人に神の愛を実践していく時の「心構え」であり、「基本姿勢」を教えられた。
塩の役割
「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」
塩は私たちの体内では塩化物イオン、あるいはナトリウムイオンとして大切な働きを担っている。それらはまず体内で消化や栄養を吸収する働きを担う。具体的には塩化物イオンは胃酸のもとになって、胃で食べ物を消化したり、殺菌する働きを担う。ナトリウムイオンは、小腸で食べ物から得た栄養を吸収する働きを担う。私たちの細胞を正常に保つ役割もある。細胞は細胞外液という液に囲まれている。ナトリウムイオンは細胞外液に多く含まれており、細胞の中と外の濃さのバランスを一定に保つ役割を果たしている。そして、神経細胞が刺激や命令を伝えるときにも、ナトリウムイオンが活躍しているのである。これらすべて、我々の体内で塩が見えないところで活躍している一例に過ぎない。
体内でもそうであるように、塩は料理の味付け、防腐剤、殺菌など、生活の様々な場でも必要不可欠な役割を果たしている。言い換えると、塩なしには人類は生きていけないと言えるほど、人生において大事な役割を果たしているのである。
「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」とイエスが語る時、それは神の国に生きる自覚と実践こそが、神が望まれている世界の維持、発展のためには必要不可欠だと語っているのである。
実力を発揮するために大切なこと
「もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」
これほど人類にとって大切な役割を持つ塩という存在。多くの場合、塩がその実力を発揮するためには重要な前提条件がある。塩という目に見える個体の形から他の存在の中に自らを溶け込ませること。言ってみれば、塩はそれ自体で自己主張して活躍するのではなく、背後に回って、関わりを持つ相手の賜物を最大限生かすために裏方に回る働きをするのである。相手の引き立て役に徹するのである。そうする時に最大限に自分の役割を果たすという特徴、存在意義がある。
体内ではイオンの形で他の細胞や器官が働きやすいように後方支援を様々に行う。料理などでは自己主張することは料理をかえって台無しにしてしまう。程よい塩加減の時にこそ、他の素材の味を引き立てる必要不可欠の役割を果たす。
相手の持ち味を最大限に引き出すのが塩の役割なのである。神の願いは、我々一人一人がこの地の塩としての役割を発揮して欲しいということである。そのために、相手に寄り添い、相手の性格や特技を理解し、相手が神に用いられるために最大限のサポートをしていくこと。これが地の塩としての役割だと言える。
塩が個性を最大限発揮できる時もある
塩は上記のように、目的に合わせて加減を調整することがとても大事な存在。多くの場合、これまで述べて来たように自己主張するような用い方はかえってマイナスとなる。しかし、必ずしもそういう場合だけではない。思いっきり塩の個性を前面に出して用いる時も存在する。たとえば防腐剤としての役割を塩に求める時がそうである。また塩そのものを見える形で用いることもある。魚の塩の包み焼などはそれである。塩そのものが釜の役割と、魚の表面を火から保護する役割と、適度に味を付けるなど、一度に複数の役割を果たしながらおいしい魚料理が出来上がる。
これらのように塩そのものが個性を発揮する姿は教会の姿とどこか重なり合うのではないだろうか。教会に来る時、多くの人が神聖な体験をしたり、悔い改めに導かれたり、元気を回復したり、生まれ変わったりする体験をする。これらはキリストの見えない姿である聖霊の働きによる。そして、地の塩である我々を通して聖霊が働かれるからである。
塩は加減が肝心
先に私たちは9つの幸いシリーズの時に5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。というイエスの教えを学んだ。地の塩としての役割を果たすということは、私たちに地の塩としての役割が期待されているということを自覚することから始まる。
その役割を果たしていくためには、隣人を思いやる心が不可欠となるばかりでなく、臨機応変に自分の個性を隠すか、表に出しながら、相手を生かすにはどうすればいいかを聖霊の導きに従って実践することになる。これには「柔和な人」としての人格が求められる。
イエスはいつも、出会う一人一人に自分を合わせていた。地の塩としての模範を示し続けて宣教されたのである。そして、今度は「あなたがたは、地の塩である。」とその使命をバトンタッチして下さっている。今週、私たちに待ち受ける「地の塩」としての役割を果たしていく様々な場面に期待しながら、共に聖霊に用いられていこう。
2024年6月2日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「塩の役割と加減」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/06zI7N2EuWg?si=HjGnsZB6wKLNvoJg
-
前の記事
山上の説教Ⅲ 負の賜物 2024.06.01
-
次の記事
世の光としての役割と加減 2024.06.16