世の光としての役割と加減

地の塩と世の光の共通点

イエスは弟子たちに地の塩としての役割と世の光としての役割を果たして欲しいと教えた。地の塩については前回学んだが、塩と光との共通点は案外多いことに驚かされる。まずどちらも生きていく上で不可欠だということ。体内においても、海中においても、塩なしに生命は考えられない。光(基本的には太陽の光を前提にする)も同じである。どちらも多すぎても、少なすぎても生命に害を及ぼしかねない。料理や食材の保存においても、両者共に有用である。天日干しは塩漬け同様によく知られた食糧の長期保存手段である。また、塩同様に日光には殺菌作用もある。光には紫外線などの目に見えない働きもある。このように光が対象物に見えないところで様々な変化を与えるという点で塩同様にユニークである。また光合成も植物の生育に欠かすことのできない働きである。塩も光も生き物の生命維持に不可欠な役割を果たしているのである。

「世の光」とは

マタイによる福音書5章14-16節(6p)

5:14a「あなたがたは、世の光である。」

イエスが「あなたがたは、世の光である。」という時、そこにどのような意味が込められているのだろうか。「世」とは「世界」と言い換えてもいい言葉である。また、光を「命」という言葉に置き換えることもできる。「あなたがたは世界中の人に必要な光、すなわち命を届けることができる存在なのである。」と訳してはどうだろうか。光は適度に明るさを増すことによって、まわりをさらに温かくし、より美しく、より鮮明にする働きがある。あらゆる命にさらなる輝きを与えることができるのである。

もともと、光の光源は太陽から来ている。その恵みはだれもが無償で豊かに受けることができる。イエスご自身、「世の光」という言葉を用いて「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろうヨハネ福音書8:12。と語った。イエスは私たちにもこの働きを託して下さっているのである。「あなたがたは、世の光である。」と。これは大変栄誉なことではないだろうか。と同時に身が引き締まる思いがする。

このイエスの言葉には、我々が「世の光」また「命の光」となれる根拠が語られている。「わたしに従って来る者は」とは、先に学んだ9つの幸いの教えを実行しようとしている者こそイエスに従っている者である。その者の足もとをまずイエスが照らして下さるのである。だから「従って来る者は、やみのうちを歩くことがない」。とイエスは宣言される。その上で、さらにイエスの持っておられる「命の光をもつであろう」と約束して下さったのである。

光特有の役割

 5:14b「山の上にある町は隠れることができない」5:15 「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。」

光は塩よりも遥かに目立つ存在だと言えるのではないだろうか。時には灯台のように、自らの光が重要な道しるべ、あるいは安全な旅のための役割を果たすこともある。時には自分が目立つだけでなく、照らす対象を明確にするという役割がある。舞台照明のスポットライトなどはその良い例であろう。また、光は対象物にどの角度でどのくらいの明るさや色合いで照らすかによって、対象物に温かみを持たせたり、おいしく見せたり、美しく見せたりすることもできる。夜も太陽光の反射によって地表の闇夜を照らす月のように、電灯や電球、燭台などは夜にも重宝され、安全に夜の旅をしたり、家で過ごすのにも欠かすことができない存在である。

光のこのような目立つ働き方も多く存在していることに改めて気づかされる。我々はいかに光の恩恵を普段あまり意識せずに受けてきたことだろうか。イエスは私たちも世の光として、このような光の役割を「升の下に」置かないで、用いなさいと励まして下さる。

世の光の最終目的

5:16「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

光は塩よりも格段に目立つ役割を果たすことができる。目立つことが求められる働きが多い分、それはさけて通ることができないかもしれない。イエスの世の光としての働きがそうであったように、世の光として神に用いられる時、それは様々な人の目にとまることも必要となる。イエスはそれを「あなたがたの光を人々の前に輝かし」と表現している。

ただし、その役割には自戒も求められる。我々は太陽そのものではないように、光を発する役割を果たす時、その光源自体は神から来ることをわきまえなければならない。イエスが弟子たちを伝道に派遣した時のエピソードがルカ福音書10章に描かれている。町々に伝道に派遣された弟子たちがイエスの名によって宣教の業を行い、喜び勇んで報告した時、「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(10:20)。と諭された。16節のイエスの教えに通じる内容である。光は天に輝く。人々の目を我々にではなく、すべての命の源、そして希望の光の光源であられる天の父なる神に目が向くように我々は世の光としての役割、あるいは地の塩としての役割を果たすのである。

我々は神に心からの感謝を捧げ、神に喜んでいただくために今週も、神から託されたこの世での地の塩、世の光としての役割を果たしながら生きる。すでにお返ししきれない恵み、そして命を与えられているからである。

神は教会に聖霊という光源を与えておられる。「聖霊の火」という表現がある。我々は聖霊の火を灯していただく薪(たきぎ)の枝になろう。薪は数本一緒になることによって燃えやすくなり、火力も段違いに強くなっていく。教会も共に聖霊の火に燃やされる時、神に栄光を帰す働きが可能となるのではないだろうか。今週も聖霊に導かれて世の光、地の塩として神に用いられていこう。

2024年6月9日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「世の光としての役割と加減」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/0n2pDJ1EXqA?si=__LjYSnbPGn4F517