聖書の一点、一画の重み
イエスに浴びせられていた批判とは
マタイによる福音書5章17-18節(6p)
5:17前半「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。」
イエスがこう言わざるを得なかった背景には、イエスが律法をないがしろにしているとの非難があったからであろう。当時、旧約聖書とは別に、ユダヤ教指導者たちが多くの言い伝えや具体例を記した「タルムード」という膨大な書籍が存在した。敬虔なユダヤ人たちは、このタルムードなどの教えを根拠にイエスを非難したと思われる。イエスが行った安息日の癒しに対する抗議以外にも次のような非難がある。
*「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか。」(9:11)
*弟子たちが腹が減ったために道中麦畑を通過した時に麦の穂を摘んで食べたことに対し…「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(12:2)
*「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません。」(15:2)
*「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか。」(17:24)<勘違いによる>
イエスが行った癒しの業にしても、上記の例にしても、厳密には聖書で神に背く罪だと断言できない。それでも、当時だれよりも聖書の教えを実行することに熱心だった人々が聖書の教えを取り違えて他人の行動を見過ごせないと非難してしまうのである。この問題は、他人事ではない。我々も同じ過ちを犯しかねないことをわきまえたい。
そこで、他の人を裁きたくなったら、イエスの次の教えを思い出すのも助けになるだろう。
*「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。(ルカ6:37)」
*「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。(ヨハネ8:15)」
聖書が明確に罪だと定めていない事柄に対しては、イエスの模範を大切にしたい。
聖書の教えを実行し、実現することにこだわったイエス
5:17後半「廃するためではなく、成就するためにきたのである。」
イエスの人類への最大の貢献の一つは、死に至るまで聖書の教えを実行し、実現することに忠実であったということであろう。人間の限界を超えてみせたイエス。神が与えて下さる聖霊の助けが伴う時に実現が可能となる聖書の預言が数多く存在する。イエスの生涯はそれが可能だということを証明した。世の中の常識を優先していれば全く違った人生が歩めたはずのイエス。しかし、神がこの世に生を与えた目的に忠実に生きることをいかなる時も最優先に生きたからこそ、福音は全世界へと広がった。
今も昔も、クリスチャンに対する偏見は存在する。クリスチャンは怒ること遅く、すべてに寛容でなければならず、他人を許すことに秀でていなければならず、不平や愚痴など言わない存在だと思われている。人がしたがらないことを率先して実行し、日曜日は家族や行事を犠牲にしてでも礼拝を厳守しなければならない融通の利かない人種だと考えられがちである。ここで語った事柄の真意は別の機会に譲るとして、世の中の教会への偏見はだれもが経験あるいは耳にすることである。
イエスが経験した当時のユダヤ人たちからの偏見と差別は誰にも匹敵することはないほどのものだったのではないか。「郷に入っては郷に従え」という生き方にイエスも真向から立ち向かう必要があったのである。その目的、理由は単純明快。神の意志に従うためであった。神が聖書を通して示した基準に時代に抗って生きるためであった。
バトンは受け継がれた
5:18「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」
今後も聖書の預言とその内容は変わらず、変わってはならず、世の終わりまで実現していくと宣言するイエス。
我々は真面目に信仰生活を送っている。教会と礼拝を大切にして来た。神に喜ばれる生き方を心掛けている。執り成しの祈りも怠っていない。私自身、この教会と教会員、日本や世界の各地から私たちの礼拝を覚えて下さっている方々の存在を心から感謝している。また、今あるがままの不完全だが、充実した人生を絶えず神に感謝している。恐らく今日の礼拝に参加されているほとんどの参加者は前向きに人生と向き合っている方々。この方々と共に礼拝できることを心より神に感謝している。
これに加えて今日の主イエスの力強いみ言葉が心に響いてくるのである。それは、律法の一点、一画がすたれることなく実現する現実である。このみ言葉は、イエスの教えに喜んで耳を傾け、その教えと真摯に向き合おうとしておられるすべての人に当てはまる約束である。イエスが地上に来られたのはこのためであった。聖霊降臨もこのためである。今後聖霊が導かれる御業に心躍らせ、語っているのである。神の言葉は必ず成就することが決定しているからこそ、必ずことごとく全うされることが決定しているからこそ、これから聖霊による奇跡を期待できるということである。
どうか、もう一度イエスのこの言葉をこの一週間黙想してもらいたい。イエスの固い決意が感じられるまで。どれほどの覚悟を込めてこの言葉を口にしたか。その言葉の通りに十字架の死を遂げ、復活された主。そして、聖霊降臨から初代教会は生まれ変わって、この祝福の中を歩き始めた。今、そのバトンが受け継がれようとしている。そのバトンを落とすことのないように一致協力してバトンを受け取りたい。
天地はまだ滅んではいないことは一目瞭然。だからこの約束の言葉は現在有効なのである。律法の一点、一画まで有効なのである。ハレルヤ!
2024年6月16日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「聖書の一点、一画の重み」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/V-XS25XY-mQ?si=QWt-SU8OATF7X8fJ
-
前の記事
世の光としての役割と加減 2024.06.16
-
次の記事
天国の評価基準 2024.06.29