神学校週間を覚えて

聖書解釈改革

イエスの最大の功績の一つは聖書解釈改革にある。律法学者やパリサイ人たちは聖書の教えを厳守するあまり、聖書の教えを迷わないで実践できるようにタルムードと呼ばれる膨大な聖書実践問答書を長年かけて編纂して行った。しかし、その過程で本来神が望んでいた内容から遠ざかってしまった教えも少なくない。現代でもその名残は存在する。安息日には火を焚いてはならないという教えを守るために、エレベーターのボタンを押して、電気的な点火を生じさせることも「火を焚く」行為とイスラエルでは解釈されている。このため、ユダヤ人専用に安息日に自動で各階に止まるエレベーターを開発したほどである。本来は、食事を前日に作り、安息日は食事作りを含むすべての仕事をしないで礼拝に集中するための掟だった。ところが「これは仕事にあたるのかどうか」の議論が重ねられ、タルムードに次々に昔の人の言い伝えとして加えられていった。イエスはその行き過ぎた聖書解釈を正し、さらに聖書の根底にある律法の精神を明らかにしたのである。それが今回の箇所から5章の最後まで続くイエスの聖書解釈改革である。

今週から来週にかけてバプテスト連盟に所属する教会で神学校週間が持たれる。聖書解釈が独善的にならないために、どのような姿勢で聖書の教えと向き合うべきなのか、神学生にとっても基本中の基本となる大切な心得をイエスはこのシリーズで語っている。その教えに共に耳を傾けて行こう。

繰り返されるイエスの言い回し

マタイによる福音書5章21-22節(6p)

5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:22a しかし、わたしはあなたがたに言う。

 ~するな「と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。…」この言い回しをイエスは繰り返し用いながら、聖書本来の教えに立ち返ってもらいたいと願われたのである。殺人は聖書が定める最も深刻な罪の一つである。通常は死刑となる。しかし、意図せず不可抗力で殺人に至る場合もある。そのため裁判で審議し、死刑に該当しない人を守る規定が聖書には存在する。それを逆手にとって、本来死刑になるべき人物を権力やお金にものを言わせ、無罪となるように偽りの判決を下す現実が当時から存在したようである。だからこそ、イエスはこの手法によって逆に死刑判決を受けることになったのである。そこにはどのような聖書解釈の問題が存在し、それにどのように対処すればいいのかをイエスは教えられた。さらにイエスはもう一歩踏み込んで心の領域にまで、神の教えを適用することが肝心だと主張する。そもそも人の内面で起きた葛藤が少しでも表面化しだした時点で、神の目には殺人同等の醜い罪が表面化することをイエスは説いたのである。

神の判断基準

 5:22b しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

 イエスは心の中に生じた葛藤や一時的な怒り、憤りを問題視しているのではない。それは罪と切り離して理解されるべきである。それよりも制御しきれなくなった感情が表に出た時点で問題ありとしているのである。激しい怒りを表情や態度で表に出した場合は裁判にかけられるレベルの重大な問題として神の目には映っているとイエスは教えられた。実際に相手を見くだして「愚か者」と罵った場合には議会、即ち最高裁判所レベルの深刻な問題だと。そして「ばか者」、これは神の目には相手を呪う言葉とみなされ、それこそ地獄行きが確定するほどの重罪だとイエスは教えた。神が嘆かれるのは何も実際に殺人を犯した場合だけではない。殺人を犯さなくても、殺人者と同等の心境に到達した時点なのである。自分のことを棚上げにしながら人を罪ありと裁く者は、実際にはイエスの側ではなく、イエスを十字架につける側に立つ誤りを犯す可能性があることを肝に銘じておきたい。

礼拝の根本精神

5: 23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい

本来ならば、何人も恨みや憎しみ、負の感情を抱いたまま礼拝に出席することは許されないとイエスは上記で明らかにしている。そういう人には聖霊が働くため、多くの場合礼拝に出席するのが苦痛となる。本来ならば、自分もその相手も共に罪を赦されているから礼拝に参加することができるのである。使徒パウロも隣人を軽々しく罪に定めないことの大切さを次のように説いている。

他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである(ローマ書14:4)。」

イエスは十字架におかかりになってまで「人を裁き、許さずにはおかない罪」の根本問題を見える形で炙り出して下さった。しかも断罪されて死刑の実刑を受けていた最中にイエスは自分を裏切り、死刑に追いやった人々のために神の憐れみと赦しを執り成し祈られたのである。この祈りの中にイエスを見捨てて逃げて行った弟子たちも含まれるのである。

礼拝は、イエスの十字架のあがないを直視する場である。神の溢れる愛と赦しを心から出席者一同と共に感謝する場である。次のエペソ人への手紙にある通りである。

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

神学校で学んだ2つの聖書解釈の大原則

1993年から3年間、私は西南学院大学神学部で学んだ。そこで学んだ聖書解釈の原則をお伝えしたい。最初に聖書解釈は可能であれば「原典までさかのぼる」という原則。神学書も有名な神学者の著書も参考として推奨されるが、常に時代の影響と主観が入っている。最後は原典と直接向き合うことが重要である。第二もこれに関連していて、聖書が人の手を介して書かれた書物であったとしても、最終形態である新旧約聖書66巻だけが神の生きた言葉であると確信できるようになること(第二テモテ2:16-17)。この聖書だけが聖霊の助けによって神が喜ばれる信仰と生き方に導くことができると信じぬく信仰が肝心なのである。

 

2024年6月30日(日) 北九州キリスト教会 宣教題
「神学校週間を覚えて」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/RejD_NksDhs?si=KBhWX94RrGiwho8U