礼拝出席の大前提
先週に引き続き、神学校週間を覚えつつ
先週から今週にかけて神学校週間が持たれている。聖書解釈が独善的にならないために、どのような姿勢で聖書の教えと向き合うべきなのか、神学生にとっても大切な心得をイエスはこのシリーズで語っている。今週も1993年~1996年にかけて私が西南学院大学神学部で学んだ事柄を交えながら前回も取り上げた最後の2節の理解を深めていく。
カルチャーショックで始まった神学校での学び
神学で私が最初にイメージしていたのは、聖書の内容を深く学ぶことだった。また、聖書の原典であるギリシャ語とヘブライ語を習得することだった。語学は予想通りに大変であった。ところが、新約聖書学、旧約聖書学、そしてユダヤ教とキリスト教の歴史や教義を学び始めると、予想以上に戸惑いの連続だった。なぜなら、神学の歴史は激しい聖書解釈の論争が何世紀にもかけて繰り広げられてきた歴史だからだ。
キリスト教の最初期はどの書簡を聖典(旧約39巻+新約27巻の合計66巻の現在の聖書)に入れるかどうかについての真剣な議論が展開した。当時はずされた一連の書簡が聖書外典・偽典として存在する。その中には16世紀の宗教改革期にカトリックが聖書に加えた別名「アポクリファ」あるいは聖書外典という書物群がある。これは旧約聖書最後のマラキ書からキリスト誕生までの約500年間の間の貴重な書物群を指す。現代までユダヤ教はこれを聖典として認めていないが、宗教改革が行われた16世紀にカトリックが聖典として認めた歴史がある。
そして近年、日本では新共同訳聖書というカトリックとプロテスタント共同で使用できる聖書が誕生した。このアポクリファを旧約聖書続編の名称で実際に旧約と新約聖書の間に入れた聖書が日本のキリスト教書店では売られるようになった。この他にも偽典と呼ぶ貴重だが、歴史的に、あるいは内容に疑義を多く含む書物も存在する。中にはイエスの幼少期のエピソードが書かれているトマスによる福音書というものもある。これらのことはキリスト教聖典史で学ぶが、授業で学べるのはほんの一部に限られる。神学という学問は長年積み上げられてきた学問だということに尽きる。各分野の概論を学んだあとは、どの分野の理解を深めていくのか、自分で取捨選択して学んでいくことになる。
みなさんにとっては教義学も興味ある分野かもしれない。父子聖霊(ちち・こ・せいれい)と言った三位一体(さんみいったい)の神についての議論。またイエス・キリストが真(まこと)の神であり、真(まこと)の人であるとはどういうことなのかを議論した歴史を学ぶことができる。どの学問も学ぼうとすると膨大な書籍が存在し、その書籍を読むにも相当の時間が必要になる。
特に西南学院大学が誇る近年建て替えられた図書館に所蔵されている神学書は圧巻である。また、日本語に翻訳されていない書籍が数多くある。ギリシャ語、ヘブライ語、イエスの時代の公用語の一つであったアラム語、その他ラテン語の書物がドイツ語や英語の貴重な書籍と並んで存在する。一度見学されることをお勧めする。建て替えられてからは、それまで書庫に収められていた蔵書の9割が一般閲覧可能になったとのこと。図書館2階にまとめられている。
前回から取り上げている礼拝と関係がある聖書箇所については、マタイ福音書の特徴を新約聖書学で学んだ上で、数ある聖書註解書の中から理解を深めていくのが現実的である。そして前回もお勧めしたように、原典を手掛かりに理解を深めていく方法もある。
いずれにしても、学べば学ぶほど、一つの聖書箇所に数えきれないほどの解釈の可能性があることを知ることになる。そのため、自分の初めの聖書理解がいかに単純で素朴なものであったかを知らされる。しかし、神学という学問は永遠に初心者マークがはずれない学問なのかもしれない。最後はテモテへの第二の手紙のパウロの言葉に希望を持ちたい。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
聖霊の導きに信頼して、祈り心と神の言葉を聴く姿勢を大切にすること。そうすれば全世界のどこにいても、どんな国の言葉で聖書を読んだとしても、神学的な知識がなくても、聖書を読む資格があることをこの箇所は教えている。もちろん聖書註解書なしには難解な箇所や退屈に思える箇所、また納得できない箇所がだれにでも存在する。それでも大抵の箇所は聖書を根気よく学ぶ中で納得いく答えが見つかっていく。
私も長年神学を学び、聖書理解を深めてきたが、益々聖書が神の霊感によって書かれた書物であることと、どんなに矛盾や疑問点があっても、そこにはそれ相応の理由があることに気づかされてきた。だから聖書は本当に神の生きた言葉だと今では確信している。
礼拝とは何であり、何でないか
マタイによる福音書5章23-24節(6p)
5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
前回22節後半で、誰かに対して「ばか者」という者は、神の目には地獄の火に投げ込まれるに等しい罪深い行為であるという箇所を取り上げた。今回23節で誰かが「うらみをいだく」という行為もこれと同等の深刻な罪としてイエスは取り上げている。その原因が自分自身の問題なのか、相手に起因するかはどうであれ、自分との関連でだれかが地獄の火に投げ込まれる可能性がある事態に陥っていることを軽く見てはならないとイエスは言われる。礼拝よりも先にその人と和解することこそ神に罪を赦された自覚を持った者の取るべき態度だとイエスは主張するのである。
23節の冒頭に語られている「だから」という言葉はとても大事である。もし、神に礼拝を捧げようとしている人が、どれほど罪深い行為を神に赦されて来たかを自覚し、その感謝を本気で礼拝の場で表したいなら、あなたとの関係で地獄に行きそうになっている兄弟と和解を実現することこそが、罪が赦された者の取るべき礼拝の在り方ではないのかとイエスは説いている。
礼拝とは罪を懺悔する場ではない。礼拝とは最大級の罪を犯した自覚がある者が、イエス・キリストによって罪とその呪いから救われたことを感謝する場である。また、キリストが下さる聖霊の助けをすぐる一週間の中で実践した事実を感謝を込めて報告する場である。これこそ神が喜ばれる礼拝だとイエスは語っているのである。
生活の中で神が与えて下さった愛を他の人に実践してこそ、本物の礼拝になるのである。我々もこのような礼拝を神に捧げる者となりたい。主イエスが勝ち取って下さった聖霊の助けによって今週もそれが可能となることを共に感謝したい。それぞれの聖霊との関わりに今週も期待しよう。
2024年7月07日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「礼拝出席の大前提」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/RdovZtMpL4I?si=XREl6yY-ZobSfWbv