和解の極意
和解を強調されるイエス
イエスは先週取り上げた24節でも和解を実現してから礼拝を捧げよと語られた。そして今回の25節でも和解の必要性を解いておられる。前回は自分から積極的に和解を実現していく話であったが、今回は相手に訴えられて裁判所に向かう危機的な場面設定である。前回はどちらに非があるのかはっきりしない内容だったが、今回は自分に非があることが前提になっているなどの違いがある。イエスはどのような理由で和解がそれほど大切だと繰り返し教えておられるのだろうか。本日の聖句とさっそく向き合っていこう。
イエスの話の概要
マタイによる福音書5章25-26節(6p)
5:25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。5:26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
このイエスの状況設定には腑に落ちない点がある。普通の裁判は、どちらが勝つのかわからないはずだが、この話ではイエスが語りかけている「あなた」の方が完全に不利で、裁判に負け、賠償金を全て払い終わるまで、刑に服さなければならなくなるといという筋書きである。
訴える者と一緒に裁判所に行くなどということは現代では想像しにくい。註解書によると、この状況は加害者である(つまり「あなた」)を被害者が裁判所に無理やり現行犯で連れていくような状況が考えられるらしい。1コドラントとは1デナリの1/64の青銅貨幣を言う。現在の貨幣では100円~150円くらいを指す。「一円たりとも負けない」ということだろうか。それほど相手が立腹している状況が生じたことが伺える。
イエスがこの話に込めた思い
イエスは「早く仲直りしなさい」と言われる。一刻を争って和解のためにできる限りのことをせよという。これは緊急事態なのであって、悠長に構えていてはならない事柄なのだとイエスは語っておられるのである。イエスが最大限の注意を払ってほしい時に用いる言葉が26節の冒頭で登場している。「よくよくあなたに言っておく」、ギリシャ語では「アーメン レゴー(言う) ソイ(あなたに)」である。興味深いのは、大勢に語っていたイエスだが、ここではあたかも一人の人に向けて語っているように単数形の「あなた」が使われている。つまり、この教えは我々一人一人に向けて非常に重要な神の教えとして語っているのである。
イエスがこの話で描いてみせたことの一つは、とんでもない結果を招くことになることを悟らない現状認識の甘さを理解してもらうために語った話だと言える。もう一つは、罪を訴えられている「あなた」が「裁判になってからなんとかしよう」などと高をくくっていているために、より有効な和解のための時期を逃そうとしていることを指摘すること。
これらの話を通して、我々が再認識しなければならないこととは、イエスの十字架で流された血潮と黄泉にまで降って受けた地獄に匹敵する刑罰は決して軽いものではないこと。「神をこれ以上悲しませるいかなる罪とも決別しなければならない」という我々一人一人にむけた強い思いが込められているのである。それはすでにゲッセマネの園から始まっていた。
ゲッセマネの園での血の汗したたる祈り
21世紀最大の伝道者の一人ビリー・グラハム師は自著「聖霊」の中で、キリスト教の福音は二つに集約されると語っている。一つはイエスが罪を贖って下さったことを信じる者は罪とその呪いから救われるという福音。もう一つは、キリストを信じた結果、イエスの約束された助け主なる聖霊が一生涯伴走して下さるという福音である。
我々は果たしてどの程度この二つの福音の凄さ、ありがたさを理解しているだろうか。イエスの地獄のような霊的戦いはゲッセマネの園から異次元の段階に入っていった。ユダに裏切られ、弟子たちには一緒に祈ってもらえず、神から差し出された盃を飲み干されたイエスであった。
かつてイスラエル旅行をした時のガイドだったスティーブン栄子師。その栄子師がゲッセマネの園で話されたメッセージが忘れられない。イエスがゲッセマネの園で手にして飲んだ盃には人類の恐ろしい罪の数々がなみなみと注がれていた。私やあなたの罪も。それを全部飲み干されたイエス。十字架以前にイエスさまが身をもって受け止めた、罪と呪いにまみれた血の盃だった…。この言葉に一同、沈黙して祈る以外に何もできなかったことを思い出す。
この時から聖霊の一切の祝福から切り離されたイエス。どれほど極限の孤独を体験されたことだろうか。肉体的にも精神的にもぼろぼろになりながら、神の約束の言葉を信じ続けたイエス。これらを通して強烈に人類に神が語り掛けておられるメッセージ。それは神が遠くから人類の現状を傍観している存在ではなく、一番堪えがたい状況のただ中で共にその苦しみを受けて下さる神だと言うこと。その愛は徹底していて、自分を亡き者にしようと十字架に付けた者達の救いのために最後まで祈られた神の子イエス・キリストであった。
カギを握る聖霊
聖霊の働きについて聖書はこのように教えている。(へブル人への手紙4:12)
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」
聖書では「神の言葉」ではなく、枝葉のない「神の言」として登場するのはイエス・キリストと聖霊だけである。イエス・キリストは私たちのために罪とその呪いから解放される道を開いて下さった。苦しみと憎しみ、悲しみと絶望から永遠に解放される希望が存在するとキリストは宣教された。それが信仰によって神が与えて下さる永遠の命の希望だと説かれた。そればかりか、イエスを救い主と信じる時、聖霊が本格的に人生を伴走して下さるようになる。その結果、イエスが行われた神の業を我々も行うことができるように成長していく。また、聖霊は「わたし」が情状酌量の余地のない有罪判決を受けるほどの罪を犯した罪人だということを悟ることができるよう助けて下さる。聖霊はありのままの自分を正しく見ることを得させる人生最大・最高・最良の助け主である。
聖霊は今日も、我々の支払うべき最後の1コドラントの罪の代償まで身代わりに払って下さったのがイエス・キリストだということを一人一人の心に訴え続けておられる。このお方から神の真の和解を受けよと招いておられる。神の言が「わたし」の正真正銘の「アーメン」になるまで、今日も私たちを見捨てず、関わり続けて下さっていることに感謝。そして、もう一歩、イエスの弟子としての歩みを先に踏み出すように招いておられる。ハレルヤ!
2024年7月14日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「和解の極意」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/DwZL9FCAqMg?si=HVzbN5X31kjA9js0
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