神の視点・姦淫と離婚
十戒の第七戒
マタイによる福音書5章27-32節 (口語訳聖書6p)
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
イエスが次に取り上げたとされる教えは十戒の第7戒(出エジプト記20:14)に関するものだった。十戒の中で第六戒~第九戒までは補足説明なしに単刀直入に⑥ 20:13 あなたは殺してはならない。⑦ 20:14 あなたは姦淫してはならない。⑧ 20:15 あなたは盗んではならない。⑨ 20:16 あなたは隣人について、偽証してはならない。と続く箇所である。その中の一つが今回イエスが取り上げた戒めである。この戒めは現代で用いられている「姦淫」という言葉とはかなり違うことをまず理解しておきたい。
聖書では大きくわけて、二つの理解が存在する。
一つ目は結婚関係にある夫婦のどちらかが婚姻関係外で行う性的関係を言う。あるいはもともと結婚していない人がだれかと性的関係を持つことを指す。聖書では夫婦の間で営まれる神聖な行為と位置付けている。それゆえに、神と会衆の前で正式に結婚式を挙げて夫婦となった者に限定しているのが聖書の定める性の営みである。
これを裏付けるもっとも古い聖書箇所は創世記2:24 「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」聖書が定める結婚の大前提には、父と母の間に生まれた子どもがまず自立する(離れる)こと。それから結婚式を挙げる(結び合う)ことが想定されている。その後、性的関係を築き上げていく(一体となる)ことが端的に語られているのである。
なお、複数の相手を妻にした事例の最初はアダムとエバの長男カインである。彼は神のご意志を尋ねることなく二人の妻を持ち、しかも聖書が示すような婚姻関係とはおよそかけ離れた結婚生活を築き上げて行ったことが語られている。次に登場するのがアブラハムである。長男イシマエルを生むことになる妻の女中だった人物と、性交渉をする話がある。この時アブラハムは神に相談せずに行動しているため、神の意志であったとは到底言い難い。そして、アブラハムの孫のヤコブの場合には、親戚の叔父にだまされ、結婚したかった妹ラケルだけでなく、姉のレアとも結婚しなければならなくなったことが語られている。いずれのケースも神の意志に反する複数婚が語られていることを理解しておきたい。これらとは対照的だったのがアブラハムの子どものイサクである。彼は愛妻リベカと生涯寄り添ったことが語られていることを強調しておきたい。
結論から言えば、聖書が語る「姦淫するな」という教えの一つ目の勘所は、これの裏返しで「神が祝福される仕方で健全な結婚生活をせよ」という結論に至る。神が与えたい幸福な生活のためには姦淫しないことが重要だと十戒では強調しているのである。そして、結婚は原則一夫一婦制である。より詳しく神が定められた結婚と性関係の規定について学びたい方はレビ記18章と20章を参照されたい。
現在、結婚の秩序と性行為の現状は聖書の原則から大きくかけ離れてしまっている。神が定めた原則を否定する時、あらゆる結婚形態や性行為が可能となり、歯止めが利かなくなる。お互いが喜びあっていることと、誰にも迷惑をかけていないことが倫理基準になってしまうからだ。この基準では複数婚や複数同士の性交渉、近親相姦も異性同性入り混じっての性交渉もお互いが喜びあっていて、誰にも迷惑をかけていないならばすべて問題ないことになる。聖書は早い段階からこのことの問題性を全世界に警告しているのである。無秩序な社会は必ず倫理的に崩壊していく。それが反面教師として聖書が描いている人類の現実なのである。神の基準に生きることが幸福なのである。
二つ目の理解
二つ目はさらに大きな概念で語られる姦淫のことで、創造主なる神との正しい契約関係から外れた生き方を指す。神を裏切る行為、神との約束を破る行為を聖書では姦淫と表現している。これは聖書の初めの書である創世記の中心的な主題の一つになっている。
神が定めた基準を尊重し、神の祝福の中に生き続けるのか、それに反抗して自分の好む基準で人生を歩むのか。聖書の最初の夫婦アダムとエバが問われ、道を外した過ちとはまさにこの選択だったのである。そして、世の終わりが来る時まで全人類に問われ続けるこの大原則こそ、聖書が語る結婚の奥義だということを理解しておきたい。この原則は独身者の場合にも、救い主イエス・キリストとのあるべき関係において当てはまるが、これは別の話。
口語訳聖書には「姦淫」という言葉が90回使用されている。その内の最初の9つの節を参考のために記す。創世記38:24、出エジプト記20:14と34:15-16、レビ記17:7と20:5-6と20:10、申命記5:18である。そして、90回の中で姦淫という言葉は圧倒的に創造主なる神の意志に背く生き方をしている罪を指摘する文脈の中で用いられている。神との関係を正すことが最優先課題だということをイエスは念頭に置いて話をしているのである。
姦淫は心の中から始まる決して侮ってはならない非常事態である
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。5:29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。5:30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
これは心の中で姦淫をした人に目や手を切除することを要求している内容ではない。あらゆる努力を駆使して姦淫を実行してしまうことから逃れよと語っているのである。右目や右手は生活をする上で非常に重要な体の器官である。一方で姦淫を実行する時に必ずと言っていいほど用いることになる器官でもある。それならば、それを失ってでも姦淫を阻止する方が良いという話の流れである。姦淫は地獄への扉に直結している非常事態だからだとイエスは警告する。地獄に行くことは想像してもイメージが湧きにくいため、目や手を失う非常事態をイエスは例にあげている。また、姦淫は情欲と深い関わりがある。人間が制しにくいものの一つが情欲である。だからこそ、情欲が心の内に支配権を獲得して自制心を失う前に、心の中の非常事態に気づき、速やかに対処しなさいとイエスは言われるのである。姦淫を行ってしまうかどうかは、心の中でどうこの誘惑と向き合うかがカギなのである。
姦淫と離婚はコインの裏と表
5:31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。5:32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。
また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
この箇所もやはり姦淫が関係している。そして、この箇所の勘所は、姦淫が離婚に通じているだけでなく、姦淫の連鎖反応を導くことを警告している。神の目に不正な離婚は、姦淫を行うのと同罪である。しかも、不正な離婚に基づく再婚がさらなる姦淫につながると警告しているのである。姦淫は神との関係を破壊する深刻な緊急事態である。第六戒「殺すな」の直後に来るのはそのためである。幸い、既にこれらの教えを守ることができなかった人々のためにキリストが十字架を負って下さった。感謝しつつ、今後は神の御心に生きよう。
2024年7月21日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「神の視点・姦淫と離婚」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/0AEAbX3iDRk?si=PHrHl_tyMkbDLgwM
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