『目には目を』の本当の意味

ハムラビ法典とモーセ五書

マタイによる福音書5章38-42節(口語訳聖書 7p)

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである

紀元前1700年代モーセ五書よりもおよそ三百年早く成立したハンムラビ法典に、はじめて「目には目を、歯には歯を…」という法律の文言が登場する。この部分は犯罪を抑止するための法律で、同体復讐法や同害復讐法と呼び、被害者が加害者に復讐していい限度を規定した世界的に画期的な法律であった。それまでの際限のない復讐劇が繰り広げられていた世界から考えるならば、相当な進歩と言える。

これと似て非なるものが聖書に登場する「目には目を、歯には歯を…」である。

*出エジプト記
21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、21:25 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」他申命記 19:21

モーセ五書ではこれを被害者の賠償責任としてハンムラビ法典とは真逆の立場から語っている。こちらは加害者が被害者にどう賠償責任があるかを示した点で真逆の性格になっている。しかも、それらの箇所をよく調べるならば、実際には一定の賠償金を支払うことによって被害を賠償することが可能な事例も存在する。ここで取り上げているような加害者側の責任論こそ、聖書では重要なのである。
イエスがさらに踏み込んで当時のユダヤ人たちにチャレンジしたのは、この聖書の重要な掟に対してであった。イエスは少し前に取り上げた箇所で「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ福音書5:18)」と語っている。このように預言しているからと言って、旧約聖書、特にモーセの律法をことごとく実行しなければならないと促しているわけではない。律法を通して語られる神の約束と原則は世の終わりまで不変であり、御子イエス・キリストとその教えを通して最後まで成し遂げられていくのである。

使徒行伝に「3:21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。3:22 モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。』」とある。
その引用元の申命記18:18には「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。」と神がモーセに語っている。そこには「ひとりの預言者」とあり、イエス・キリストによって成就したのである。

現在のイスラエルには神殿は存在しない。代わりに全世界の救い主であるイエス・キリストが神殿祭儀で捧げられる犠牲としての役割を永遠に引き受けて下さったのである。そのため紀元70年以後、神殿がローマ軍によって破壊され、現代まで神殿祭儀がこの地上から消滅してしまっていても、律法の精神、礼拝の精神は現在も存続しているのである。
イエスはこう預言された。ヨハネ福音書 「4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」この預言も現実のこととなっているのである。同じように、旧新約聖書の中には、現代では同じ生活習慣を実践することが求められていない事柄(現代でも有効なものが多い)が様々に存在する。割礼の儀式や食べ物の規定などがそれである。

イエスのチャレンジ

5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい5:40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい5:41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい5:42 求める者には与え、借りようとする者を断るな

39節のみことばほど、多くの人が誤解した教えも少なくない。一つの原因は、イエスの言葉の中に「悪人に手向かうな」とある。あなたの頬を打つ人物が悪者で、あなたは被害者だと考えてしまうからである。しかし、イエスはすべて復讐心に囚われ、怒りに自制心を失っている者を悪人と受け止めているのである。
ここでイエスが語る加害者は「あなた」なのである。あなたが何らかの仕方で相手を先に怒らせたために、あなたに復讐しようとしているのがここで語られている状況である。その証拠にイエスはあえて右の頬を打たれた場合について語っている。イエスの時代も右利きの人が多かった。そのため、普通に打つと右手で相手の左の頬を打つことになる。しかし、ここでは「あなたの右頬を」打った場合とある。ユダヤ教では、相手に侮辱的な制裁を加えたい時に右手の甲を使って相手の右頬を打つことを指す。相手に屈辱的な制裁を加えることが目的のもの。そこまで加害者が被害者から仕返しをされたら本来は許されるという場面なのである。

イエスはそこでさらなるチャレンジをするのである。右の頬を打たれた時点で自分の賠償責任を果たしたなどと考えてはならないと。償いとは律法通り(法律通り)に責任を果たすことではなく、相手が納得いくまで誠意を示して謝罪することだとイエスは教えた。その具体的な行動が自ら進んでもう片方の頬を相手に向ける行為なのである。

40節もあなたが訴えられている。つまり加害者なのである。律法に従えば、上着までは相手に差し出す必要はないのだが、必要とあらば上着までも相手に差し出すようにとイエスは教えた。上着はユダヤ人社会では特別だったからである。出エジプト記では、「22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。」
イエスはたとえ律法では上着をその日の内に返してもらえる権利があったとしても、それを失う覚悟で相手に上着を差し出して謝罪せよとチャレンジした。

41節も同じ精神でイエスはチャレンジしている。ローマ帝国の支配下にあったイスラエルは、たとえローマ兵に荷物をいきなり運ぶように命令されても、最低1マイルは市民の義務として運ばなければならなかった。それでもイエスは、義務としてではなく、神の僕として誠心誠意、心を込めて実行することをチャレンジしたのである。それがこれらに共通するイエスが求めておられる信仰姿勢なのである。決して簡単なことではない。

しかし、神はこの律法の精神を実践するために自ら人(御子イエス・キリスト)の姿を通して、加害者側を象徴する十字架を担って下さった。神は傍観するのではなく、自ら人類の苦しみをご自身のこととして受け止め、共に担って下さった。それが創造者であるはずの神があえて十字架にかけられた意味である。神は人類の苦しみをご自身の痛みとして共有されたのである。しかも、それで終わりではなかった。キリストは三日目に復活された。これが意味することがさらに重要である。人類は呪いと苦しみ、死で終わるこの世の現実を克服することができるという希望が復活に象徴されているからである。これがあらゆる苦しみの中にある人々に希望と神の御心に生きる力を与える聖書の福音なのである。

2024年8月4日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「『目には目を』の本当の意味」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/2n8vpixfi60?si=Bhvg3UbAXTh3UljC