主の臨在を意識して

我々の人生の生き甲斐を問うイエスの教え

マタイによる福音書6章1-4節(7p)

6:1自分の義(施し)を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

 今回、冒頭で用いられている「自分の義」という言葉は今日の箇所で数回用いられている「施し」に置き換えることができる言葉。自分が持っているもので、誰かの欠乏を補うこと。それが施しである。これは聖書ではとても重要な人間の使命として登場する言葉である。しかし、そんな善行にも落とし穴が存在するとイエスは言う。これを理解することが今回の大事なポイントとなる。

冒頭で語られる「自分の義」という言葉が問題の所在を示している。この言葉は「神の義」と対極にある言葉。神を蚊帳の外において善行を行うことはできるのである。神を信じていなくても、あるいは神を意識しなくても、施しは可能だということは世界の現実が証明している。それがそんなに問題なのだろうかと思う人もいるかもしれない。現代人の多くは、今回のイエスの教えがなかなか理解できないのではないか。自分にも、他人にもいいことをしようと心がけることのどこがいけないのかと思うことだろう。この世では人に一定の評価をされることは、出世のためにも、さらにもっと活躍の機会を広げるためにも非常に大切なこと。「自己アピールすることがそんなに悪いことなのか」と反論したくなるのではないか。

これに対する神の返事は1節と2節の後半部分に明確に述べられている。もちろん悪いわけではない。ただ、天の父からももらえたであろう報いはもらえず、世の中の人々からの評価しかもらえないことを自覚して欲しいと語ったのである。言い換えると、この世に神から遣わされた人生の使命を果たしたという実績にはつながらないと警告したのである。

福音書で繰り返されるこのテーマ

  我々は本当に神に生かされていること、神に喜んでいただくことを意識して生きているだろうか。また、イエス・キリストから離れては一切有益なことなどできないと言う事実を認識しているだろうか。
ヨハネによる福音書には「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」とある。ここにはイエスが関わらない仕方でこの世で行ったことは、神が求めている実績らしい実績が何も残らないことを明確にしている。「実績」は実を積むと書く。神の使命を意識し、神に喜ばれる人生を選び取って生きている自覚を持って行動するのと、しないとでは、実を結ぶかどうかの違いを生むとイエスは語っている。

マタイ福音書の7章でもイエスは次のように語っている。「7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

ここで非難されているのは明らかにクリスチャンである。しかも悪霊を追い出した実績があり、イエスの名によって多くの力ある業を行った実績があるクリスチャンが想定されている。それでも、それらの実績が一切神には評価されず、天国の記録の書に残らないことがあり得ることをイエスは言っているのである。その理由は今回のことと関係があると思われる。

日々神からいただいた人生だということを意識するためには

6:3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。6:4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

イエスは最後に重要なヒントを与えて下さっていることに感謝したい。3節と4節でどうすればいいかが示されている。しかし、今回の説明は決してわかりやすくはない。「右の手のしていることを左の手に知らせるな。」これにどんな意味があるのか。このたとえは「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざに少し似ているように思う。「神からいただいた人生の目的に集中し、自分自身に対しても人に施した善行を誇る機会を与えないほどに神の使命にひたすら専念よせ」ということであろう。
ヘブライ語のアルファベットは22文字ある。その中央にあるのが10番目と11番目の文字、ユッドとカフである。これは神の右手と左手のそれぞれの役割の違いを表わしているという理解がある。右手は祝祷の時に見かけるような惜しみなく祝福を与える神の右手を表わしている。この時、恵みを与える手のひらが下向きになる手。これに対して左手の手のひらは上向きで、何かを相手に与えるか、受け取る神の左手を表わしているとの解釈が存在する。つまり与える右手と渡すか受け止める左手である。
結論としては与え尽くす神の右手を意識して自分の使命に集中せよとイエスは助言しているのである。神はどんなに目立たない使命でも確実に報いて下さる。そのことに信頼して、神の与え尽くす愛に生きる使命に専念すること。それこそ、天に宝を積む人生だとイエスは教えられた。

イエスは私たちの傍らに聖霊の姿でいつも共に立っていて下さる。イエスの十字架の贖いを遂げた釘後が残る右手を私たちの肩に優しく置いて下さるお方。その右手は私たちを神の使命へと送り出す派遣の手でもある。そして、その使命を実行するためのあらゆる知恵と力を分け与える祝福の手である。そして、常に私たちのために執り成し祈って下さる祝祷の手である。このイエスの右手が私たちの肩に添えられていることを絶えず意識するならば、きっと私たちの生活に変化が生じるのではないだろうか。このような温かいイエスの右手を絶えず感じながら生きる者となっていこう。

2024年8月18日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「主の臨在を意識して」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/JhWErEEegJQ?si=PgkRT56oh-EkLdG3