祈る前の作法

 

 偽善の祈り…その2

マタイによる福音書6章5-8節(7p)

6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

「祈りほど重要なクリスチャンの使命はない」と多くの人が言う。しかし、祈りには作法があるとイエスは言う。これを突き詰めていく時、祈る内容や順番も重要である(間もなく「主の祈り」で取り上げる)が、祈る前の準備と心構えが祈りそのものを大きく左右するとイエスは教える。

特にエルサレム神殿跡の嘆きの壁で大勢祈っている人を見かけることからも理解できるように、公衆の面前で祈る習慣がユダヤ教には存在する。特定の目的のために作られた場というものは、それに集中しやすくするという効果も否めない。一方で、そのような公の場では他の人からどのように見られているかという様々な意識や感情が湧いてくるだろうことも容易に想像できる。イエスが前回から強調しているのは、神だけに意識を集中する環境づくりに最大限注意を払う必要があるということである。祈っていても、実際には神に集中できず、人に意識が向いたり、結局は自己満足のための祈りになってしまっていては本末転倒である。この傾向と誘惑が強いことをご存知のイエスだからこそ、祈る前の作法が大切だということを語るのである。その教えに耳を傾けたい。

隠れた事を見ておられる父なる神

 6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

イエスはあえて神を表わす「主」という言葉を用いずに「父」に祈れと語る。子にいつも関心を向けてくれる父なる神に対する信頼が前面に出ているイエスの言葉である。だからこそ、全幅の信頼を込めて祈ることができるということである。

その一方で、この方に祈るということは「隠れた事」をすべてお見通しになる全能の神だという一面もある。この全能なる神にはごまかしが一切通用しない。真実、真心を神に向けない限り、見抜かれてしまうということである。祈りは神が招待して下さる場に招かれた者たちが出席する場である。こちら側が相手の招待に応じるようなものである。しかもその相手はいつであっても快く我々の話に耳を傾けて下さる心広く、忍耐強いお方なのである。その特権を過小評価しないようにしたい。祈りの一回、一回が、神の特別な祈り会に出席を招待された意識を持ちたいものである。この意識が持てるならば、事前の準備と心構えも違ってくるのではないだろうか。

誤解される「くどくど祈るな」

6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。

7節の教えもしばしば誤解されて実践されている。くどくど祈らないということは短時間で祈るべきだと誤解するのである。多忙な現代人には短時間で祈るいい口実となるが、これは検討違いも甚だしい悲劇以外のなにものでもない誤認識である。
聖書には熱心に祈った、ひたすら祈った、という事例が数多く登場する。イエスの荒野での40日の断食は、その最たるものであろう。「断食」は集中的な祈りを指す聖書の特別な言葉である。くどくどとは時間のことを指すのではなく、祈りが聞かれるか、聞かれないのか半信半疑、あるいは中途半端な信仰で祈ること。また、回数をいたずらに増やせば祈りが聞かれる可能性が高まると考えるようないい加減な祈りに対する認識で祈ることを言う。祈りは一にも二にも大前提として、祈るお方への信頼と適度な緊張感が必要不可欠なのである。

大事なのはついでに用事を済ませるような意識で祈らないということ。あるいは一日の決められた家事の一つをこなすかのような意識で祈らないということ。祈りは世界の現状を永久に変えてしまう可能性を秘めている。それが祈りである。イエスがゲッセマネの園でした祈りや十字架の上でした祈りはまさにそれであった。祈りは武道や様々な習い事と同じで、事前の準備と柔軟体操がとても大切である。同じように祈る前の心身の統一も大切である。くどくどと祈らないためにも、事前準備の大切さをわきまえておきたい。

求めない先からご存知の神にどう祈るか

 6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

くどくど祈る人というのは、自分が実現したいと願っている事柄を中心に祈る人に圧倒的に多いのではないかと思われる。家内安全、商売繁盛、無病息災など、これらの願い事を神に捧げることを祈ることだと思っている人がいかに多いことか。これこそくどくど祈る代表的な祈りになる危険性があることをわきまえておきたい。

イエスが弟子たちに教えた主の祈りには家内安全、商売繁盛、無病息災が含まれていない。これらが重要ではないということではない。これよりも優先すべき祈りが存在するということである。その優先すべき祈りの模範が主の祈りである。そして、その祈りの前提条件として必要不可欠になるのが聖霊の本格的な関わりと導きである。

ルカによる福音書11章13節「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」とイエスご自身も聖霊を祈り求めることの大切さを強調している。復活した後も弟子たちに約束の聖霊が下るまでは忍耐強く祈って待つことを教えられた。それ以上に大切な祈りの優先課題はないと宣言したのである。聖霊を祈り求めることこそ、信仰生活の最優先課題だということを改めて肝に銘じたい。

しかしながら、この課題を本当に理解し、実践していくことは意外に難しいことを多くの方が経験済みだと思う。
そこで次週、9月の第一と第二週、10時に開始の教会学校の時間に「聖霊が果たす唯一無二の役割」をテーマに聖霊について集中的に学ぶ機会を設けた。ネット配信も予定しているので、この特別研修に参加できない方は、是非ネットで視聴されることをお勧めする。聖霊がこれまでにない仕方で私たちの教会に働く時、何が期待できるのか。どう具体的に祈ると良いのかなど、聖霊について私たちが理解を深めなければならない内容を分かち合いたい。
主が本格的に聖霊の祝福の扉を開いて下さるように共に心を合わせて、ひたすら祈って備えていこう。初代教会の模範に従って。

使徒行伝1:14 「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら(約束の聖霊が与えられる)祈をしていた。
アーメン

2024年8月25日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「祈る前の作法」

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