祈りに革命を起こす

主の祈りが唯一無二であることを理解する

礼拝の中で毎週唱えている主の祈り。個人的に主の祈りを日課のように祈っている人も多い。しかし、主の祈りを唱える時以外で、どれだけ我々は主の祈りで示される祈りの原則や模範を参考に祈っているだろうか。

主の祈りが全世界の人々の模範としてイエスが弟子たちに教えたものだとすれば、我々は主の祈りを忠実に実践する者でありたい。イエスの祈りは商売繁盛、家内安全、無病息災とは全く違っていた。その理由は神の目にはより重要な祈りが存在するからに他ならない。主の祈りとは、我々がこの世に生を受けた目的そのものに直結する祈りなのである。そして、神が我々をどのように用いて全世界に祝福をもたらそうとしておられるのか、神の人類祝福計画の設計図が映し出されている。

イエスが弟子たちに教えられた主(イエス)の祈りは、祈りに革命を起こす祈りである。ご一緒に今回は冒頭の9節に凝縮されている祈りの内容を理解していく。聖書の原則に従えば、最初に登場する内容は、特別に重要な役割を担っていることが多い。主の祈りの最初の内容も同じだと考えられる。主の祈りの一番最初に神が込められた内容について、聖霊の導きをいただきながら、その真実に近づいていこう。

天にいます・われらの・父

マタイによる福音書6章9節(7p)

 6:9a だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、

最初の祈りの前半には、二つの注目点がある。対照的な意味合いがある「天におられる神」と「」としての神。もう一つは今後も絶えず登場する「われら」という言葉が主の祈りに何度も入れられている理由。イエスがこれらの文言を厳選した背景にはどんな理由が存在するのだろうか。

 聖書において「天」は比類なき最高の権威を示す言葉。イエスはその天におられる神を思い描くことによって、本来近づき難い絶対的な主権をお持ちの神と、子どもなら最も近づきやすい愛情と責任感に溢れる父親としての神とを結合させて祈ることを教えている。祈る相手は決して軽んじてはならない存在であり、礼節をわきまえて祈るべきお方。同時にそのたぐいまれな愛情と責任感ゆえに我々は神に対して親しみと尊敬の念を持って祈ることができるのである。

天におられる父なる神に祈ることができる栄誉、特権は何ものにも代えがたいのである。それが天地創造の神に祈るということ。神が我々の祈りを絶えず待っていて下さっているとは、なんともったいないことだろうか。だから最初に祈る相手がだれなのかということを十分に時間をかけて実感できるまで黙想することは、極めて重要なのである。そこに焦点を合わせやすくするのがイエスの二つの対照的な祈りの文言なのである。

 また、もうひとつ見落としがちなのが「われら」という言葉。主の祈りは個人でも複数でも心を合わせて祈ることができるように想定されている。そして、何よりも肝心なのは、個人的な祈りは想定されていないということ。それが実は主の祈りの重要な特徴なのである。

神の御名をあがめるとは

6:9b 御名があがめられますように。

イエスが最初に祈るように励ましたのは何か。それは神の創造目的に即して忠実に生きることに焦点を当てた祈りであった。「御名があがめられますように」とは「あなたが命じ、求めておられる通りに、全身全霊を傾けて御名をあがめる生き方を、今日のすべての瞬間に実践できますように」という祈りである。ギリシャ語では訳すことが難しい不定過去・命令形・受動態で書かれていることが特徴的である。一刻、一刻の現在が大切なだけでなく、神が命じておられるということで、神が責任を持って実現するためのすべての援助を与えて下さる保証付きの命令だということが意味に含まれている。これこそやがて我々が天国で神の御前で注ぐ礼拝の姿ではないだろうか。そこに近づく限りなく貴重な「今」という瞬間に、イエスは我々に究極の目標、目的を視野に入れながら、栄光を帰すべきお方を明確かつ身近に感じながら祈ることを教えられたのである。

このような祈りは、十分な心の準備なしに祈れるものではないことがおわかりだろう。我々に命を与え、人生の目的を与えて下さった方を目の前にして祈るとはどういうことなのかをわきまえさせる祈り。それがイエスが最初に教えて下さった祈りである。

本来は御名をあがめるために、さらに入念に「神の御名」について語らなければならない。あなたは聖書に登場する神の御名をどれだけ知っているだろうか。天地創造の神、万軍の主、永遠の命を持たれるお方、アガペーの愛をお持ちのお方…。これについては続く主の祈りシリーズの中で理解を広げていくことにしたい。実は神の御名を実際に一つ、一つ思い浮かべながら主の祈りの最初の祈りをするならば、これだけでも1時間は祈り続けることが可能となる。また、そうするのにふさわしいお方。それが我々の祈りを聞いて下さる「天にいますわれらの父」なのである。

「われら」に秘められたもう一つの福音

主の祈りを理解すればするほど、我々は主の祈りを祈るのにふさわしくない者であることを痛感させられていく。これまで多くの信徒から「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく…」とあるが、なかなか他人をゆるすことができない者にどうして、このように祈ることができるだろうかという言葉を繰り返し聞いた。

その答えは「われら」にある。この祈りはだれが最初に祈られたのか。イエス・キリストである。人間というものは他人が犯した過ちをなかなか許すことができない。イエスはその我々の罪深い現実とその苦しみを見過ごすことができず、十字架に至るまで共にその現実を担って下さった救い主である。主の祈りは信徒の祈りではない。イエスと共に祈る祈りなのである。だから主(イエス)の祈りと言う。この自覚が普段の我々の祈りを完全に変えることができる。主の祈りの最初の部分の祈りをどう気持ちを込めて祈るのか、どのような自覚を持って祈るかによって別次元の祈りに生まれ変わるのである。
今日から、我々は祈りを変えていくことができる。自分の実現したい事柄を重点的に祈る祈りから、イエスが共に祈りを合わせて下さる祈りに変えていきたい。ここから本格的なキリストにある人生の変化を期待することができるのである。

2024年9月1日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「祈りに革命を起こす」

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