キリストと聖霊を喜ぶ祈り
主の祈りの第二番目の内容をどのように祈るのか
今日の宣教題と主の祈りの第二番目の祈りとがどのように結びつくのだろうかと疑問に思った方も多いのではないだろうか。主イエスの祈りの二番目の内容は「御国」と「みこころ」と「天と地」という聖書の重要語から成り立っているが、キリストも聖霊もどちらも語られていない。さっそくその切っても切り離せない理由を理解していきたい。
イエスの宣教の言葉にヒントがちりばめられている10節前半
マタイによる福音書6章10節(7p)
6:10a 御国がきますように。
まず御国(または神の国や天国)について理解することから始めたい。イエスは少し後の33節で次のように語っている。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」御国は優先的に祈り求めるべきだと強調されている。他の祈りの課題はこれに比べれば2次的だと言い換えてもいい表現。また、この祈りに集中することが結果的にその他の祈りを解決する早道だということが示唆されている。御国とは言うまでもなく、人間が夢見るような将来の世界の姿ではなく、神が導き、実現したい世界を指している。それを実現するためにキリストも聖霊もそれぞれの役割を果たしているのである。
イエスはこの世に決定的な悪影響を与えている罪とその呪いから我々を解き放つために十字架での呪いと苦しみを受け、また死後に黄泉での異次元の裁きを背負うこととなった。あがないとは、この二つの極限の苦しみを負うことだった。それらの罪の結果から解放されなければ、御国は我々に永遠に近づかないからである。イエスの宣教開始の言葉を思い出すと「悔い改めよ、天国は近づいた」(4:17)であった。同じく23節でも「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え…」ていたことが語られている。イエスにとって「御国の福音」こそ宣教の中心主題だったと言える。だからこそイエスにとっても「御国がきますように」という祈りは優先順位の高い祈りだったのである。
具体的な御国の姿とはどんな御国を指すのか
6:10bみこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
それでは「御国がきますように」とはどのように実現することを意味するのか。それが後半の祈りで表現されている。神のみこころが隅々まで実行に移され、実現している世界を指す。創世記第一章一節で語られている通り、神は「天」と「地」の二つの世界を創造された。神がおられるところが天だというのではなく、どちらも神の創造した世界である。「天」は聖書に登場する天使をはじめとする霊的な生きものや肉体を離れた人間の魂が移される世界を指している。「地」は我々が生きているこの世界を指す。イエスのこの部分の祈りから察すると、「天」の世界の方が「地」の世界よりもみこころが実現している完成度の高い世界だということが伺える。
補足説明:それでも、現在の「天」も「地」も完成形ではない。旧約聖書ではイザヤ65:17と66:22、新約聖書ではⅡペテロ3:13と黙示録21:1で語られているようにやがて完成形となる新しい「天」と「地」が実現することが預言されている。この新しい世界は最後の審判を経て実現することになっている。
我々が現在住む地上は、神のみこころが崩壊している世界になっていることを聖書は語り、我々の現実もこれを証明している。しかし、これに希望と変革をもたらすためにキリストと聖霊はそれぞれの役割を果たし続けている。聖霊の働きについてはイエスご自身が次のように弟子たちに語っている。「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)
御神とは神の霊、すなわち聖霊の顕著な働きによって悪霊のあらゆる目論見が通用しなくなる世界を指している。このイエスの働きは、イエスがご受難と復活を遂げて勝ち取られた本格的な聖霊の祝福と霊の賜物を与えられることによって、キリストのからだである教会がその業を引き継ぐことができるのである。
主の祈りは主イエスの祈りである。同時に主イエスが我々と優先的に共に祈りたい祈りである。主イエスは祈り求める者が聖霊の祝福を受けることによって御国を実現したいと本気で祈っておられる。今日もキリストのからだなる教会を通してこの世に希望と変革をもたらしたいのである。
キリストと聖霊を喜ぶ祈り
主の祈りの第二番目の祈りはキリストの十字架のあがないと聖霊の果たして下さる役割が理解できた時に喜びの祈り、感謝の祈りとなる。神のみこころをこの地に実現するために、教会を用いて下さろうとしているイエスの思いが詰まった祈りなのである。これを喜ばずにはいられない。アーメン、ハレルヤ
2024年9月8日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「キリストと聖霊を喜ぶ祈り」