霊的な日毎の糧

祈りの目的

  祈る目的はなんだろうか。神への頼み事ではない。主イエスの祈りの第一の祈りでは、神がどのようなお方なのかを黙想しながら、神が招かれる祈りの場に心身を鎮めて御前に出る。第二の祈りは、この特別な特権に参与できるようになるために御子イエス・キリストと聖霊が今も果たして下さっている役割に対して感謝に満たされながら、人生の目的を再確認する。こうして第三の祈りの扉が開かれることになる。主イエスの祈りは祈りに革命を興す祈りである。一般的な祈りとは一味も二味も違うことを今回も確認していきたい。

 「日ごとの食物(日用の糧)」とは何か

マタイによる福音書6章11節(8p)

 6:11a わたしたちの日ごとの食物を、<礼拝時の「主の祈り」では…我らの日用の糧を>

日ごとの食物」が単純に三度三度の食事のことではないのは明白。世界にはそれがままならない人々は大勢いる。しかし、それよりも戦争や暴力などで命の危険、あるいは健康上の深刻な問題を抱えている人にとっては、こちらの方が優先順位が高い祈りになることもあり得るはずである。それらの人たちにとっても、主の祈りの順番に沿って祈ることには意味がある。最初の二つの祈りを先にする時、絶対的な神への信頼が増し、どのような状況の中にあっても、平安を獲得する早道となる。心に平安が必要な時ほど、第一と第二の祈りに時間をかける必要がある。

イエスご自身もこのすぐ後の31-32節で「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」と教えている。従って、イエスが毎日第三に優先順位の高い祈りとして、食事が三度三度与えられるようにと祈るはずはないのである。全世界の深刻な飢餓のことを念頭に置いてもである。世界の飢餓のために祈るのは食前の祈りの時をお勧めしたい。

それでは「日ごとの食物」とは何か、「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」とは、何を優先して祈ることをイエスは教えておられるのだろうか。

イスラエルの民が荒野で40年かけて学んだ日ごとの食物(マナ)の目的

  出エジプト記16章には、イスラエルの民が約束の地カナンに入る直前まで40年神から与えられたマナという食物のことが書かれている。マナが与えられた目的は民に食糧を与えることが主目的ではなかった。その主たる目的は民が神の教えに従順に従う生き方を身に着け、実践するためであったことが語られている。また、6日目には2倍のマナが与えられ、安息日は礼拝に集中する生活習慣を徹底して身に着けさせる目的もあったことが語られている。神の戒めに心から従い、生きること。これが出エジプト記に示されている「日ようの糧」である。民が一人当たり1オメル集めたとされるマナは約2.3リットルであった。2ℓのペットボトルほどの量である。これを5日間欠かさず忠実に適量を集める生活習慣は、神のみことばと生きる使命を日々適量欠かさず受け取ることも暗示している。そして、6日目は7日目の安息日に備えて忠実に2倍の量を集め、適切に調理して安息日には礼拝に集中することが民に求められた。これが出エジプト記に示される「日ようの糧」の目的であった。

イエス本人がサマリヤの井戸で弟子たちに語った「日ごとの食物」の意味

イエスがサマリヤに行かれた時の井戸端での話に重要な理解が語られている。イエスは弟子たちと4章32-34節で次のように話している。

イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」』

と明言している。ここで正しく理解したいことがある。イエスの食物とは神のみこころを知るために聖書を読み、また祈ることではない。これ自体は非常に重要であり、日ごとに必要なことに違いない。しかし、イエスが理解する食物とはみこころを行うこと、そして神に授かっている使命を果たすことだと語った。

日ごとの食物」とは個人的な必要のために祈ることではなく、神のみこころを実践すること、また与えられている使命を果たすことであった。

具体的に何かを与えてもらうためではなく、神に用いてもらうための祈り

我々は食べるために生きているのではない。食べるのは神の使命に生きることが目的。バランスの取れた食事を心がけることは大事である。しかし、神の使命(御業)こそが、我々が理解しなければならない日ごとの糧なのである。神の御業を行うこと、神が今日我々を用いて実現したいみこころを指すのである。

人類の祈りはいつしか自己実現のために必要なことを神に祈ることが中心になってはいないか。これがイエスの言う「これらのものはみな、異邦人が切に求めているもの」ではないだろうか。我々はイエスの祈りに心を合わせ、日ごとに与えられる神からの使命を新たに自覚し、今日という日の内にどこまでみこころを実現するのか、目標を定め、目的の実現のために邁進する生き方。これをイエスは日々大切にされたということである。

病気、障害、悩み事などの癒しや解決を祈る前に理解しておきたいこと

我々には実際に今すぐにでも解決をお願いしたい祈りが大抵ある。それでも思い出してもらいたい。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」
(イザヤ53:3)

イエスはこれらの現実とどう向き合われたのかが主の祈りに示されているのである。イエスご自身これらの苦しみ、大変さを知っているからこそ、それらの苦しみ、悲しみのただ中にある人々の友となることができたのである。人々を励まし、癒し、立ち上がらせ、困難に直面する信仰と希望と愛を与えていかれたのである。こうして神のみこころ、御業を日ごとに自覚し、実践されたのである。

神は我らの弱さ、苦しみ、悲しみさえも用いて御業を行われるお方。イエスと弟子たちとの次のような会話も覚えておきたい。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』
(ヨハネ福音書9:2-3)

クリスチャンは日ごとに「神の御業を、今日、この身を通して、また教会を通して現していくことができますように」と祈るのである。アーメン、ハレルヤ

2024年9月15日(日)   北九州キリスト教会宣教題
「霊的な日毎の糧」

礼拝動画はこちらからご覧ください。
(今回は音声のみとなりますことをご了承ください)