聖霊の祝福の条件/特別信徒研修会Ⅰ

はじめに

聖霊について理解するということは、キリスト教における最重要テーマの一つではなく、最重要テーマを理解することである。創造主なる神やイエス・キリストに比べると、聖霊については、かなり曖昧な理解しかできていないと感じている人も多いのではないだろうか。今回の研修の目的はこれに終止符を打つこと。聖霊の祝福とは何か、どうしてキリスト教信仰において必要不可欠なのか。なぜ最重要テーマなのか。今回の研修でこのことが確信できる時になるように祈る。

聖霊をイエス・キリストの霊だと理解するだけでは不十分

聖霊についてよくわからないという人でも、断片的に聖霊が特別な存在だということは理解できているのではないか。まず聖霊はキリスト教では三位一体の神の第三の位格「父・御子・御霊」の神として表現されてきた。イエスは昇天される前に「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイ福音書28:19-20 以下口語訳)とバプテスマとの関連で三位一体の神の重要性を強調された。福音書に続く使徒行伝は別名「聖霊行伝」と呼ばれるほど聖霊の働きを強調している書簡である。また、パウロも繰り返し聖霊を教会宛ての書簡の中で口にしている。普段の個人の祈り、教会での祈りの文言の中に、「聖霊」という言葉を用いて祈っている人はどれだけいるだろうか。聖霊をイエス・キリストの霊だと理解しながら祈るだけでは不十分である。

エペソ人への手紙4章30節で「聖霊を悲しませてはいけない」とパウロは言った。「キリストの霊を悲しませてはいけない」とパウロは言わなかった。聖霊を悲しませるというのは、聖霊の働きに対して無関心でいることと、聖霊の祝福を受けずに生きている状態を言う。イエスと弟子たちがどれほど聖霊の祝福にこだわったのか、次にそれを見ていくことにする。

聖霊の祝福を授かることにこだわった人々

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない
(マタイ福音書12:31-32)。」

イエスがどれほど聖霊との関わりを大切なものとしているかを理解してもらいたい。しかもイエスに対して言い逆らうことは赦されるが、聖霊に対して言い逆らうことの結末の重大性に着目してもらいたい。聖霊の祝福を理解している者とそうでない者とでは天地の差が付くとイエスは言っているのである。また、明らかに聖霊がイエスとは違う役割を持っていることがわかる説明である。この具体的な違いについては次週の研修で理解を深めていく。

使徒行伝8章には、ピリポの伝道によってサマリヤの人々がイエスを信じてバプテスマを受けたことが語られている。ただし、14節以降には次のように語られている。

エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。」

この箇所でも使徒たちがバプテスマを受けるだけでなく、聖霊の祝福を受けることの大切さを理解していたことが語られている。この目的だけのためにペテロとヨハネはサマリヤまで出張したことが語られている。聖霊の祝福は、その大切さが理解できているクリスチャンたちが、共に祈ることによって実現していくことが示されている。また、この箇所から水でバプテスマを受けることと、聖霊の祝福を受けることとは同じではないことが示されている。

イエスが十字架のあがないを成し遂げた動機

ヨハネによる福音書14~17章において、イエスは最後の晩餐の席で弟子たちに十字架のあがないの死の目的について語られた。その関連で聖霊の役割について繰り返し強調された。特に14章16-17節、15章26節、16章7-15節に語られる聖霊が果たす役割の箇所を各自で黙想されることをお勧めする。その中で16章7節の言葉に今日は注目したい。

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」

イエスはここで明確に十字架のあがないを成し遂げなければならない目的の一つが「助け主」なる聖霊の祝福が与えられるためだと語っている。それなしには聖霊の祝福を弟子たちが受けることができないということである。イエスのあがないの業なしには聖霊との関わりは始まらない。そうはっきりとイエスは宣言された。

次回さらに具体的に聖霊の祝福について理解を深めていく。それを確信する方法についてもみ言葉に聴いていく。その前に聖霊の祝福に我々があずかることこそがイエスならびに父なる神の悲願であることを理解することが今回の目的である。

聖霊の祝福を祈り求めることは、祈りの最優先課題

最後にもう一度、聖霊の祝福を祈り求めることの重要性を確認しておこう。召天される前にイエスは弟子たちに聖霊の祝福を受けるまでは一切の伝道活動をせずにエルサレムに留まるように指示を出された(使徒行伝1:4-5)。その理由は弟子たちに繰り返しイエスが語って来た聖霊の祝福を本格的に受けるために祈りに専念させるためであった。また、先週の礼拝宣教でも言及したように、イエスは聖霊の祝福を祈り求める必要性について次のように語った。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」
(ルカ福音書11:13)

神とイエスが非常に重要な祈りの課題だと強調している聖霊の祝福。それを我々が真剣に祈り求めないのに自動的に与えられることなどあり得ないのである。イエスはこうも教えられた。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」
(ヨハネ福音書14:16-17)

私たちが聖霊の祝福をこれまで以上に知ろうとし、その御業を見ようとする時に、約束は実現するとイエスは教えられた。ここに私たちの希望がある。

北九州キリスト教会 教会学校特別信徒研修会 
2024年9月1日(日)10時~10時35分
< 聖霊の祝福の条件/Ⅰ> 

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