赦されるための作法

最も苦手意識を持たれる祈り

礼拝で主の祈りを唱える時の文言は次の通り。

マタイによる福音書6章12節(8p)

我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ

これまで多くのクリスチャンからこの第4番目の祈りを唱えるのに困難を覚えるとの訴えを聞いてきた。その理由は、祈る側が先に罪を赦すことが自分の罪を赦される前提条件のようになっているからである。ところが我々は他の人から悪質な被害を受けた場合、なかなか赦せないのである。たとえば窃盗、暴力、裏切り、いやがらせ、うそをつかれるなど、だれもが経験する可能性のある事柄をまるで一方的にこちら側が赦さなければ、自分も神に対して犯した罪を赦してもらいないかのような印象を受けるからである。まして、身近な関係者を殺害された場合にも我々は自発的に赦さなければならないということならば、なおさらである。様々な訳の聖書を読んでも、ギリシャ語の言語を調べても、確かにどの訳も「我らがゆるすごとく」なのである。果たして第4番目の祈りの意味は実際にはどんな意味なのか、さっそく中身を理解していこう。

「罪」が「負債」と訳されている口語訳聖書

6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。

実は口語訳聖書では「」が「負債」となっている。随分と受ける印象が違ってくるのではないだろうか。罪の場合には悔い改めや賠償責任がセットになるのに対して、負債の場合には返済義務がセットになる単語。かなり違うのではないだろうか。そして主の祈りの第4番目の祈りを「負債のある者を許す」と解釈した場合には、まるで借金を踏み倒されても相手を許さなければならないかのように思えてくる。「罪」と理解しても、「負債」と理解しても、果たしてイエスはそんな厳しい祈りを我々に模範として示されたのだろうか。十字架の上で罪の赦しを執り成し祈られたイエスを我々は知っている。そのため、このような意味で祈った可能性は否定できないのだが、今回ばかりは違うと思われる。しかも主の祈りは毎日起床直後からその日の大切な優先課題を祈る祈りである。また、その日を通して何度でも祈ることができる祈りである。一日になんども罪の赦しや負債の赦しを真剣に祈るようにイエスが教えられたとも考えにくい。それではイエスはどんな意味を込めて祈られたのだろうか。第一のヒントは原語にあった。

言語のギリシャ語の意味を理解する

原語のギリシャ語では「オフィレーマタ」と言い、他人の領域を不当に侵害したり、他人の領土に不法侵入することを意味する。私はこの単語の意味を知った時、すぐさまエデンの園で神の領域に不法侵入して善悪を知る木の実を不当に侵害し、それを自分のものにしたアダムとエバの行為を連想した。人間の根源的な罪、それは神との信頼の絆が損なわれたことから始まったのである。同時に神の領域を不当に侵害し、神が近づくなと命じた領土に不法侵入したのであった。今回の祈りは、この信頼の絆との関係が深いと考えられる。

「おゆるしください」の意味を理解する

第二のヒントはギリシャ語で「赦して下さい」という言葉にどのような意味が込められているかを理解することである。ギリシャ語ではこの単語は命令型で書かれている。文法では命令型は「命令する」という意味だけでなく、別の意味として差し迫った喫緊の課題だという認識を持ちながら、相手に懇願するという意味がある。さらには継続の意味も加わる。

おゆるしください」はこのような意味を込めた祈りだと理解できる。私たちが神に対して負っている罪、そして負債は到底一生涯をかけても責任を果たせず、返済できないものである。それにも関わらず、我々は新たな一日を始めるに当たって、圧倒的な赦しと恵みを与えて下さろうとしている神の祝福が先立っていること、そして一日中それが継続することに気づかされる。そんな神の愛に浴することがゆるされている今日だということをわきまえる時、第4の祈りの祈り方に大きな変化が生まれるのである。

主イエスの模範に生きることがゆるされている新たな一日を自覚して祈る

第4の祈りはどのように一日を過ごしていくことが可能なのかを弁えさせるのである。第4の祈りは次のような祈り心で祈ることが示される。
「私たちが今日目覚めた時からあなたはこの一日が赦しと祝福に満ちた日となるように伴って下さっています。なんとありがたき恵でしょうか。これほどの愛と赦しの中にある私たちです。一方、この世は信頼の絆を破壊する出来事に満ちています。しかし、私たちはあなたの愛に包まれて今日の一日を始めました。それが最後まで続くことをあなたは保証して下さっています。ですから私たちが今日直面するあらゆる出来事にあなたの赦しの精神を発揮してことに当たらせて下さい。主イエスに罪をあがなわれ者にふさわしく歩ませてください。そのためにも、あなたの僕にふさわしく自分の十字架を負って信頼の絆を損なおうとするすべての出来事と向き合わせて下さい。あなたの模範に生きることがゆるされている一日を心から感謝します。」

このような意味をこめながら、第4番目の祈りをイエスと心を合わせて祈るのである。

我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。われわれがあなたが示されたようにゆるし、信頼の絆を深めていくことができますように。

と…

赦されるための作法

悪魔は決して容赦せず、赦すことをしない。イエスは赦すことがもたらす祝福と影響力を示し続けて下さっている。ゆるすこと。これは選択であり、罪をあがなわれた者の特権である。ゆるしは他の人と分かち合うことができる恵みであり、神の子だということを自ら証明する手段でもある。ゆるすということは相手の罪や犯罪を野放しにすることではない。無抵抗でいることでもない。罪に抗い、抵抗し、組せず、主の祈りで立ち向かう。それができるのは、私たちがすでに赦しの中にある者だという確信がある時ではないだろうか。赦すことができる者とは、赦される恵みを体験し、それが生きる上で掛け替えのないものだと実感し、感謝した者である。赦すことができる者は、神の側にいる。そして、既に神に赦されているのである。こんな自覚から始まり、過ごす一日はなんと開放的だろうか。

2024年9月22日(日)  北九州キリスト教会宣教題
「赦されるための作法」

礼拝動画はこちらからご覧ください。
(今回は音声のみとなりますことをご了承ください)