誘惑への対処法
われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
マタイによる福音書6章13節(8p)
6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
主の祈り(5回シリーズ)も今回で最後となった。今回のシリーズの特徴は、弟子たちが主イエスと共に祈った祈りと言う前提に立って聖書解釈を試みた点にある。他にはイエスが弟子たちにどう祈るかを教えたと解釈する方法もある。その場合は、「弟子たちの祈り」と題名を変えた方がよかったのかもしれない。しかし、私は前者を採用したい。前者の場合は、毎日主イエスの祈りに合わせて祈ることになる。そして祈りの内容が難しければ難しいほど、主イエスと一緒に祈ることで励まされるからである。
イエスが最後に持って来た5番目の祈りも、これまで同様に単純な祈りではない。短いが、含蓄のある祈りである。今回も聖書の文言と礼拝の時に唱和する文言との違いを比較しながら理解を深めていこう。
「試み」をどう訳すかで解釈が変わる
「試み」は「試練」と訳すこともできる。「試練」と訳した場合には、それを神が容認される場合があり得ると聖書は証言している。ただし、その場合には、神は最後まで責任を取って下さるという約束が伴う。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Ⅰコリント10:13)
また、「試み」は新共同訳聖書のように「誘惑」と訳すこともできる。その場合には悪魔側の仕業だということは次の聖句などによっても明白である。
「だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。」(ヤコブ1:13-14)
さらに言えば、この世に生きている限り、誘惑は避けて通れないとイエスご自身語っている。
「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。」(ルカ17:1)
こうして検討してみると、イエスがどのような意味で祈ったのかが少ずつ明らかになってくる。イエスは上記箇所で語られているような意味で「試練」あるいは「誘惑」という言葉を用いていないということである。なぜなら「試練」は「世の常」であると聖書は語っているし、神は「のがれる道を備えて下さる」お方だと約束して下さっている。ならば、イエスがそれを知りながら、毎日「試練にあわせないでください」と祈ったはずはないのである。
また、誘惑についても同じことが言える。「罪の誘惑が来ることは避けられない。」とイエスは教えた。それにも関わらず、「誘惑にあわせないでください」と毎回祈るはずはないからである。
そこで別の意味が存在する可能性があることを検討しなければならない。その前に後半の言葉を取り上げておきたい。意外に多くの方は知らずに一文字省略して主の祈りの5番目の祈りを唱和しているのである。
それはどこか。後半の「悪より救い出(いだ)したまえ。」である。これはミスプリントではない。文語訳聖書の言い回しによるものである。かく言う私も数年前まで「悪より救い出(だ)したまえ」と祈っていた。みなさんはこの違いに気づいていただろうか。今後もどちらで祈ってもきっと問題はないと思われるが…。
「試みにあわせず」の第三の解釈
今回ほどギリシャ語の前置詞の重要性を痛感したことはない。日本語では「試みに合わせず」の「に」という前置詞がギリシャ語では「Eis」という単語が用いられている。ギリシャ語の「Eis」という前置詞は、ある状態の中へと移動する前後の一連の状況を含めた言葉である。そのため日本語になおすと「まっただ中へ向かう」という意味が含まれる。このように考えると、イエスがどのような理解をしながら祈ったのかがわかってくる。5番目の祈りの前半は次のようになる。
6:13 「わたしたちを試み(誘惑)の一番激しいまっただ中へと引き入れられないようにお支え下さい。」という切実な思いで試練(誘惑)に対して目を覚ましていることができるように祈っていた祈りだとわかるのである。
Ⅰペテロ5章8節に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」とある。「目をさましている」とは注意を払い、祈るべきことをわきまえて祈りながら生活することを言う。イエスはこの必要をだれよりも自覚していた人物だったのではないだろうか。
エペソ人への手紙6章12節では
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」
と表現している。このような霊の戦いを肌で感じ、常に警戒していたからこそ、イエスは抵抗できなくなるような激しい誘惑のまっただ中に引き入れられないように毎日、そして常に執り成し祈られたのではないだろうか。いち早く、間違った道に足を踏み入れたことを自覚し、手遅れになる前にそこから救い出されることは非常に重要だということをわきまえ、自分のため、またすべての人のために執り成し祈るのがこの最後の祈りである。
祈りは世界を救い、変える力がある
主の祈りはイエスがこの世界をどのように見ていたかがよくわかる祈りである。また、何を優先してその日、その日を大切に生きていたかがわかる祈りである。この主の祈りに私たちも招かれている。だから、私たちは心を合わせて主の祈りを共に礼拝で唱和するのである。
預言者サムエルも次のように執り成しの祈りの大切さを語っている。
「わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。」(Ⅰサムエル12:23a)
また次の言葉も祈る時の励みにしたい。
「かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。」(ヤコブ5:20)
どの聖句もイエスがきっと主の祈りを日々していた時に理解していた現実に違いない。
共に主の祈りの一員に招かれていることを感謝し、その祈りの重要性を理解しながら、家族のため、教会のため、人類のために主の祈りを大切にしていこう。
2024年10月6日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「誘惑への対処法」
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