主の祈りの結びのことば
マタイによる福音書6章1-13節(8p)
頌栄)国と力と栄えとは限りなく なんじのものなればなり アーメン
前回までで主の祈り5回シリーズを終えた。しかし、礼拝で唱える主の祈りには上記頌栄を最後に唱えている。これはいつ頃から採用されたものなのか、そしてこの部分はどのような信仰を込めて唱えたらいいのか、今回はこの頌栄部分の理解を深めたい。
頌栄は聖書由来の歴史あるもの
頌栄の歴史は古い。1世紀後半頃に書かれたとされる十二使徒の教訓(ディダケー)には、「国」が省略された形で主の祈りの最後に書かれたものが存在する。この事実は教会が世界に広がっていく早い段階から主の祈りが定型化され、広く用いられていたことを裏付ける。他にもその後、少しずつ単語が部分的に省略されていたり、追加されていたりするものの、頌栄が主の祈りの最後に書かれていたことがわかっている。
ルターの宗教改革以降、聖書が他の言語に本格的に翻訳されていくことになるが、中でも1611年にイギリス国王が編纂を命じたキング・ジェームズ訳聖書(KJV)が有名である。この聖書訳は現代でも非常に評価が高く、今でもこれこそ聖書の中の聖書だと評価して礼拝で用いている教会もあるくらいである。現代登場したあらゆる英語訳聖書も、このKJV訳聖書を参考に作成されたものも少なくない。なぜ、それほど高い評価が得られているかについてはいくつかの理由が挙げられる。宗教改革期は聖書翻訳家たちが聖書の元になっているヘブライ語、ギリシャ語、アラム語を日常的に使用していた人が多かったこと。だから聖書のこまかい点までその意味や特殊な言葉遣いを理解できたこと。近代になって発見された重要写本によって現代の聖書訳では変更や省略された聖書が数多く存在するが、さらなる研究の結果、それらの中には多くの異端の影響を受けた聖書があることが現代になってわかって来たものも少なくない。KJV訳はその影響を受けずに済んだと言う利点もある。
また、ここでは詳細まで説明できないが、KJV訳は文字や言葉の使用回数に至るまで人間業とは考えにくい緻密な計算のもとに書かれ、全体的調和が大変優れている聖書としても評価が高い。一説では、神は新約聖書がやがて英語に訳されて世界に広がることを見越してKJV聖書を聖霊の主導で翻訳させたと理解する人もいるほどである。KJV訳聖書は格式の高い文章で書かれているものの、かなり古い文言も多いため、現在ではそれを現代文に近づけた新(New)KJV訳が一般的には出回っている。インターネットでは数多くの無料英語聖書サイトがあるので、そこで参照されたい。このKJV訳聖書にもマタイ福音書6章13節の主の祈りの最後の部分に頌栄が掲載されているのである。
「And lead us not into temptation, but deliver us from evil: For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen. 」
そして、現代訳聖書の中では、日本でも普及している「新改訳改訂第3版」でも括弧はつくものの、頌栄が聖書の中に記載されている。括弧がある場合には、それが聖書の翻訳によっては記載がないものもあり、現代まで議論が続いていることを意味している。その新改訳聖書では次のようにある。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」以上のような経緯から、現在我々が礼拝で使用している口語訳聖書には、頌栄は載っていない。
旧約聖書の時代から存在している頌栄のことば
もうひとつ理解しておきたいことがある。頌栄は新約聖書から始まったものではない。その原型は旧約聖書にあると言っていい。歴代誌上の29章11節の文言を参照されたい。
「主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。」
ここに主の祈りの頌栄の文言が書かれていることを見出すことができる。旧約聖書の頌栄と言ってもいいのではないだろうか。
頌栄を主の祈りの最後に唱える意義
主の祈りは徹頭徹尾、神の御業をあがめ、いかなる厳しい現実のただ中にあったとしても、神に信頼し、期待し、神の御心とお守りの中に生きる喜びを言葉にした神賛美の祈りである。
ダビデの詩編も多くは試練と困難の中で生まれた賛美と祈りが多いことも覚えておきたい。
それを念頭においた祈りだからこそ、現実において様々に試練が存在していたとしても、出だし同様に最後も神の御名をあがめる文言で終わる祈りとなっている。そこでもう一度頌栄の文言を見てみたい。
*国と力と栄えとは限りなく なんじのものなればなり アーメン
頌栄は三つの部分に分かれている。第一部「国と力と栄えとは」、第二部「限りなくなんじのものなればなり」、そして第三部「アーメン」。
第一部は神の天地創造の最終目標を黙想しながら祈る内容になっている。調べれば調べるほど、これら「国」と「力」と「栄え」という言葉には、深く、豊かな意味が込められていることを様々な聖書箇所から知ることができる。これについては次回以降で取り上げたい。これが理解できたならば、さらに頌栄を心を込めて祈ることができるようになるであろう。
第二部は永遠の昔より、今後も永遠に第一部が神に帰すことを告白する祈りになっている。
神の祝福の内に永遠に生きることができる幸いを心から喜び祈る者でありたい。
第三部は「アーメン」。これは「御心のままに全てが今日も、これからも実現することを信じ、感謝し、すべての結果を神に委ねる。」という信仰と全身全霊で服従する意志を込めた誓いの言葉。最後の「アーメン」にまでこのような気持ちを込めて祈りたい。
主イエスが「アーメン」という言葉を用いた時、常に目の前に十字架と復活を霊の目で見ていたことであろう。「アーメン」こそ、あらゆる年齢、人種、そしてこの地上で生を受け、キリストを主と仰ぐこととなったすべての時代の聖徒らと共に主を礼拝する時の象徴的な言葉である。これを唱えることが許されている者としての自覚を新たに、今週も主の祈りを実践していく者でありたい。
2024年10月13日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「主の祈りの結びのことば」
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