赦すことと赦されること

はじめに

マタイによる福音書6章14-15節(8p)

6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう
6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう

今回のテーマについては、先月9月22日の「赦されるための作法」マタイによる福音書6章12節にある主の祈りの第四番目「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」の宣教の時に大事なことは語らせていただいた。そちらもご参照願いたい。
今回はこれを踏まえて特に赦す側の心得について理解を深めていきたい。ただし、前回同様、暴力や犯罪を単純に赦すとか、無抵抗でいるとか、泣き寝入りすることではないことを今回も抑えておきたい。また、相手の不可抗力で被った被害もこの際、除外しておくことにする。賠償の必要のある事柄もこれに含める。

今回問題にしたい状況とは、犯罪行為ではないことで、あなたが相手の言葉や態度などで不当な扱いや差別、傷つくような思いをした場合。または自分の大事にしている生き方や価値観を否定された時、軽んじられた時などが今回の赦す対象となる。

クリスチャンであっても実践が困難な今回の状況設定

我々はいくつになっても人の過ちを赦すのが苦手である。それどころか、相手がよほど丁寧に謝罪しない限り、その赦せない感情を引きずり続けることが多いのではないだろうか。時には、何日もそのことでいらいらを募らせ、何倍にもして復讐したい衝動にかられることもある。人間は自尊心を傷つけられることに非常に弱いのである。それを見越しての今回のイエスの教えである。

聖書には今回の主題に関連する聖書箇所が多く存在する。たとえばマタイによる福音書

18章『21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。』

この時のイエスの表現では、無限に赦すべきことが結論として語られている。続いてイエスはたとえでこれを説明している。一万タラントという生涯かけても返すことが不可能と思える額の借金を王から返済免除された人の話。彼が王から寛大なはからいを受けたにも関わらず、自分の仲間が借りていた百デナリの借金の返済に対して、王と同じようにはできず、彼を強引に獄に入れてしまうというもの。それを聞きつけた王が立腹して、彼への温情をなかったことにして獄に入れてしまうという落ちがつく。

このたとえとその前のイエスの教えとは、神の途方もない罪のあがないを受けた者の応答責任が主題になっている。死に値する罪を神にあがなわれ、しかも神の子としての名誉を回復していただいた者だからこそ、他の人のあやまちを何度でも赦すことでその恩に報いるというのがイエスの主張である。これに比べると、今回の状況設定はかなりゆるい前提条件になっていることがお分かりいただけるであろう。物理的な被害ではなく、心理的な被害に限定しているからだ。それでも経験からも分かるように、決して低いハードルではない。

カインとアベルの物語に見る問題の所在

赦すという主題は聖書で早い段階から取り上げられている。人類最初の殺人事件はどのようにして起きたのか。それは自分(兄カイン)よりも弟アベルが神に評価されたことが許せなくなって起きた殺人事件であった。アベルがカインに不当なことをしたのでもなかった。とんでもない逆恨みだったのである。ここに人間の本質的な弱さが表現されている。我々は他人よりも低い評価をされ、軽んじられることに耐えられないのである。たとえ自分に非があったとしても。そのことをカインとアベル物語はみごとに表現している。

人間は簡単に人が赦せなくなる生き物だということ。我々はそれを自覚することから始める必要がある。神はカインに忠告した。創世記4章

5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。』

この箇所といい、今回の箇所といい、聖書は赦すことと、赦されることとを切っても切れない関係として扱っている。また、この問題との向き合い方こそ生と死を決定づけるほどの重要な問題だと主張しているのである。赦しの問題はそれをどう治めるかという問題なのである。我々が思っている以上に、人を赦せないという現実は、神にとって大問題なのである。そのまま放置しておくことが許されない緊急事態。だからこそ、イエス・キリストは地上に来られたのであり、これに勝利する道を示して下さったのである。

心のバリアを自分のものにするところから始める

世の中には本当に赦しがたい犯罪や悪質ないやがらせは存在する。それらを脇に置き、最初に状況設定した我々への心理的攻撃についての対処方法に絞る。今回の加害者の特徴は、物理攻撃はしていないという前提。体を傷つけられたり、所有物を壊されたわけでもなく、名誉や自尊心などを傷つけられた場合に限定した。こういう些細な事件こそ、後々まで尾を引くことが多いのである。疲労が溜まっている時や思うようにいかないことが重なっている時に特に効果を発揮してしまうのではないだろうか。

我々はこういう時にどう対処すべきか。まずはみ言葉にしっかり立つことである。今年の年間主題聖句を思いだそう。
使徒行伝9章31節「こうして教会は…平安を保ち…主をおそれ、聖霊にはげまされて歩み…」である。
ヤコブの手紙1章21節に「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

次に我々のためにイエスが負って下さった十字架の苦しみと祈りを思いだそう。また、引用したマタイ18章のイエスの言葉も思い出そう。

なによりも、名誉や自尊心への攻撃は心のバリアをしっかりとかけることで撃退できることを自覚しよう。赦せなくなる相手からの攻撃の武器は言葉なのである。こんなこと言われる筋合いはないと憤るから赦せなくなるのだが、所詮それは言葉に過ぎない。本当は心を傷つけることも、致命傷を与えることもできないのである。ここが肝心なのだが、相手の言葉自体は、自分が傷つくことを許さなければ傷つくことは決してないことを理解したい。

我々はイエスに命がけで罪をあがなわれるほど愛され、神の子として受け入れられた存在。他の人がどう評価し、どう言おうが、イエスに愛されている私。だから私はイエスのように相手を赦す。この覚悟を持ち、年間主題聖句を覚えながら平安を保って過ごそう。

2024年10月20日(日) 北九州キリスト教会宣教題
赦すことと赦されること

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