ラクダが針の穴を通る方法

はじめに

本日は召天者記念を礼拝式の中で執り行います。これに合わせて共に北九州キリスト教会との出会いを与えられ、教会員として歩まれた故人たちがどのような聖書の希望を胸に地上での生涯を終えられたのか、聖書を通してイエスの教えに聴いていきましょう。

イエスの度肝を抜くコメント

マタイによる福音書19章23-26節(31p)

23節 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。24節 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。25節 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」

この箇所の主題は、人はどのような条件を満たせば神が用意しておられる天国に行くことができるかという問いへの答えであった。イエスはこの問いに逆説的に答えられた。つまり、どういう人が天国に行くことができないのかを先に説明されたのである。その答えは当時のユダヤ人の常識とも、現代の多くの人々の常識とも違っていた。

今回の箇所で引用される当時のユダヤ人社会における「富んでいる者」の理解も現代とはかなり違うため、それを先に説明しておきたい。当時の社会においては、富んでいるということは、先祖から続く神への忠誠心と努力の積み重ねによって勝ち取ることができた神からの祝福として理解されていた。それを証明するかのように富んでいる者の多くは、地域の名士であり、政治的な指導者であり、宗教的な指導者も多かった。人一倍聖書の教えを厳格に守る人々も少なくなかった。聖書に関する知識も一般の人々よりも多く、だれもが一目置き、道ですれ違う時には道をゆずらなければならないようなオーラ(風格)を出していた人々であった。

イエスはこのような意味を持つ「富んでいる者」を例にあげて、弟子たちに天国に努力だけで入ることがどれほど絶望的なのかを語ったのである。らくだが針の穴を通れないことは子どもでもわかる。これは不可能だというたとえである。それにもましてこの世で最も模範的な生き方をし、社会で功績を挙げた人物であっても、天国に入ることはさらに絶望的だとイエスは語ったのである。これを聞いた人々がざわついたのは、このような理由からである。「では、だれが救われることができるのだろう」と…そんな人など考えられないからである。しかし、イエスは別の答えを持っていた。

意表を突くイエスの答え

26節 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」

イエスは彼らを見つめて」とあるのは、しばし時間をかけながら目の前にいる一人一人を見渡し、目と目を合わせながら、人生で最も大切な真理を彼らに伝える間を取ったということである。そしてこの後、二つの大切な真理を彼らに語ったのである。

一つ目は、だれも自分の努力だけで天国に行く切符を手にすることはできないし、そのままでは天国で幸福に生きることは到底できないということであった。天国は神の愛で満たされている場所。別の言い方をすれば、神の愛が完全に全うされている場所。

ところが人間は罪を犯す存在であり、そのため神の教えに逆らい、神の愛を全うできずにこの世で生きている。この世の現実はこれを顕著に物語っている。聖書が意味する罪とは、命を軽んじ、憎み合い、傷つけ、悲しませ、苦しめる一切の神の愛に反する現実を指す。天国とはこれらから完全に切り離された世界を指す。

我々の努力だけで聖書が語る天国のような世界を創り出すことが可能なら、この世界は神の助けを借りずとも、とっくの昔に平和で愛に満ちた世界になっていてもおかしくなかったであろう。しかし、現実は違う。

一方で人間はロボットと違って自由意志が与えられている。だからこそ、人の痛みも共感できると共に、喜び合い、心から相手に尽くすことができる。これこそ神が人間に分け与えられた神に非常に近い人格である。

人生には特別な目的がある。神が与えた自由意志を正しく活用して、神の教えを忠実に実践して生きることである。クリスチャンとしてこの地上での人生を終えた者達というのは、神の愛と平和に満ちた天国に入るのにふさわしい者に近づく努力をあきらめないでこの世での生涯を終えた者達である。

愛と赦しは神から来る

「信じる者は救われる」というキリスト教らしい言葉が独り歩きして世の中に出回っているが、それは間違いである。キリストの教えは、神の存在を信じてさえいれば、天国に行けるというものではない。天国は神の愛を自分の意志で実践し合うところ。神が与えた自由意志を悪用して生きる時、憎しみと戦争という現実が待つ。神は悪を最終的には裁かれる。そのために神は既に世の終わりの時を定めておられる。
「神は人を神に似せて創造された」と聖書にあるが、それは人間が自由意志を備えた霊魂を持つことを意味している。神の愛を実践して生きることを軽んじた霊魂が集まる所、それが地獄である。そこは神を必要としないことを選択した霊魂が行くところに他ならない。神の愛から離れること。そこが聖書がいう地獄である。神が与えておられる自由意志には結果が伴うのである。

しかし、そこに向かう人類を救うために神はイエス・キリストをこの地上に送って下さった。しかし、歴史が語る通り、当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、それが理解できず、十字架につけて処刑するという決定的な過ちを犯した。当時の人々から天国に一番近いと思われていた人々がその決断を下したところに聖書の最大の皮肉が込められている。誰も自分の努力だけで天国にはいけない。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」

第二の真理とは、キリストにしか果たせない特別な役割があるということ。聖書ではそれを罪をあがなう「犠牲の小羊」と呼ぶ役割である。キリストに導かれて生きることを選び取った者は、積年の罪と過ちで汚れた魂を雪よりも白く清めていただけるという約束がある。だから、神の御前に恥じることなく天国で生きることができることになる。この神の小羊の憐れみなしには、死後の世界もこの世から引きずったあらゆる罪と過ちに苦しむ場所にしかならない。
だからこそ、我々が取るべき態度はただ一つ、神に対して無関心でいた生き方を悔い改めて、イエス・キリストに導かれて、召天者たちに続く者になること。天国での再会は、この条件が満たされてこそ、本当に喜びに満ちた再会になることを共に自覚したい。
この福音を知らずにこの世での人生を終えてしまった人々のために、イエスは死後の世界にも行って下さった。そこにキリストの福音を知らずに人生を終えた人々に対する希望がある。神は心から罪を悔い改める者を赦し、清める愛と希望の神であることを共に感謝したい。

2024年11月10日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「ラクダが針の穴を通る方法」

礼拝動画はこちらからご覧ください。