子どもを用いられるイエスさま
はじめに
今日の話は、イスラエルの三大祭りの一つである過ぎ越しの祭が近づいて来ている時期にイエス様が行った特別な奇跡についての話です。イエス様はやがて過ぎ越しの祭の時に死刑を宣告されて十字架に付けられて殺されることになります。イエス様はそんな時が来ることを身近に感じながらイエス様の元にやって来る人々のために、自分にできる精一杯のことをしたいと願われて、今回の特別な奇跡を行ったのでしょう。さっそく、その場面に移りましょう。
イエスとピリポとの会話
ヨハネによる福音書6章3-14節(145p)
6:3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。6:4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。6:5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6:6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。6:7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
この時、山に登ってイエスのまわりに集まって来た人々は大人の男性だけで五千人いたと10節に書かれている。そこで女性と子どもを人数に含めると少なくとも7千人くらいにはなったのではないだろうか。7千人分のパンを今から用意するというのはだれであっても不可能だとすぐに思ったことだろう。それでもイエスはピリポに「どこからパンを買って、この大勢の人々にパンを食べさせようか」と質問した。このイエスの質問に素直に返事をしようと思えば、ピリポは「いえいえイエス様、今は山の方に来ているのですから、そんなに簡単にパンなど買って来ることは不可能ですよ。これだけ大勢の人々にパンを買ってきて与えるだけの時間もお金もないではありませんか。」と答えたはず。
しかし、ピリポも考えた。「イエス様がそんなわかりきったことを私に質問するはずがない。さては、私の計算力を信頼してくれて、この数えきれないほどの人たちに、どれくらいのパンを買うお金が必要なのかを知りたいということかもしれない」と考え、200デナリ、(日本円にすると)100万円分のパンを買ってきたとしても、こんなに大勢の人に十分に食べてもらえるほどは買って来ることはできないとピリポは答えた。(イエスはもちろん、もっといい解決策を持っていた…。これに続いてアンデレが会話に入って来た。)
今度はアンデレがイエスに話す
6:8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
アンデレは子どもを連れて来て、子どもが持っていたパンと魚を見せた。大麦のパン5つと魚2ひき。まさに絶望的…しかし、「人にはできないが、神にはできる。」(マタイ19:26前回箇所)これがイエスが常に持っていた確信である。
イエスの解決策
6:10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。6:12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。 6:13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。 6:14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
イエスは群衆を座らせた。幸いその山肌には草が当時多かったようで、座りやすかったことも聖書には書かれている。神は万事が益となるようにすべてを備えていて下さるお方であることが読み取れる。遠方からの長旅の者も多かったはず。山を登るのも苦労する人々もいたはず。そんな人々が腰を下ろして、神が与えて下さる主の晩餐に預かれるとは、夢にも思っていなかったことだろう。この時の食事はどんなに喜びと感謝、癒しと励ましに満ちたことだろうか。イエスは全員が十分満たされるまで配り続けられた。しかも、実際には12のかごいっぱいに残るくらいに配り続けて下さった。他の人々が満たされる中、イエスはひたすらに食べずに神の御業を弟子たちの協力を得て続けられたということだろう。群衆の幸せそうな情景をご覧になりながら、自分たちの役割を最後まで果たし続けるイエスの姿が目に浮かぶ。そこにもイエスの愛が伝わってくる。
イエスをそばで見ていた子ども
この一部始終をイエスの一番そばで見ていたと考えられるのが5つのパンと2匹の魚を提供した子どもであった。最初は言われる通りに自分の食事をイエスに渡し、それをどうするのか少し心配そうになりゆきを見ていたことだろう。すると、イエスがそれを手に取って神に感謝を捧げる祈りの言葉を耳にする。心から神が与えて下さった糧を喜び、感謝しているイエスの祈りが心に染みてくる。こんなに心を込めて食前の祈りをする人に出会ったのは初めてだったかもしれない。その後はただただ驚くばかり…。自分が持っていたわずかなものをイエスに差し出し、用いていただく時、考えもしない神の御業を体験したその子ども。イエスに信頼して自分の持っているものを差し出すことがいかに大切なのかをその時、一生の教訓として学んだことだろう。
「人にはできないが、神(のひとり子イエス・キリスト)にはできる。」それを実感できるイエスの奇跡の業、愛と希望と信仰に満ちた業。それが今日の聖書の教え。イエスに用いていただけない人間はこの世に一人もいない。そう励まされる今日の聖書の言葉ではないだろうか。主イエスを信じて、ただ自分の持てるものを差し出していくこと。それがどんな幸い、そして奇跡につながっていくのか、これからも共に体験していきたい。
2024年11月17日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「子どもを用いられるイエスさま」
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