主の賜物を生かし合う
はじめに
本日は礼拝後に定期総会を行います。過去二年間、同じ年間主題聖句と聖書箇所を採択したように、これからの2年間共有したいと願っている宣教題「主の賜物を生かし合う」と聖書箇所を選びました。この箇所に示される豊かな内容を礼拝参加者全体で共有したいと思います。教会組織60周年を新年度に迎え、伝道開始100周年を2029年に迎えようとしている当教会にとってふさわしい箇所と思うからです。
イエスを取り巻く時代背景というのは、ユダヤ人たちに命を狙われる危険性が高まって来ていた時期です。ユダヤ地方にいたイエスの一行は速やかにより安全な故郷のガリラヤ地方に戻ることにしました。そこで選んだ帰路というのが、敢えて当時生粋のユダヤ人とは不仲であったイスラエル中部のサマリヤ地方を通るというルートでした。追手のユダヤ人たちはそこを通ることを通常敬遠するからです。イエスの一行はサマリヤ地方に入り、イスラエルの名前の由来となった人物であるヤコブが掘ったとされるスカルの井戸に到着します。弟子たちはイエスをそこに残し、街に買い出しに出かけます。その間に水を汲みに来たサマリヤの女性との会話がきっかけで大勢のサマリヤ人がイエスこそ聖書が預言していたメシヤ(救い主=キリスト)だと信じることになっていきます。そのサマリヤ人たちがやってくる前に弟子たちが先にイエスの元に戻って来た時のイエスと弟子たちの会話の一部が本日の聖書箇所です。
当時のことわざを用いて弟子たちに話したイエス
ヨハネによる福音書4章35節(9p)
35節 「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。
しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。」
『刈入れ時が来るまでには、まだ四か月ある。』このことわざは、ものごとには順序があり、それ相応の時間と適切な労働を要するという意味のもの。勤勉にこつこつとなすべきことをやり遂げた者に喜びの収穫がやってくるという意味合いのことわざである。イエスがこのことわざを用いた時に実際の収穫の時期がどれだけ近づいていたのかは定かではない。また、それが四か月後なのかもっと時期が近づいていたのかは重要ではない。
イエスは弟子に世の中の常識だけでなく、聖霊の導きによって信仰の目で物事を見ていくことが非常に大切だと教えられたのである。人はとかく常識に囚われやすいからである。また、しばしば言い訳ばかりして、すべきことを先伸ばしにすることがある。しかし、神が導びかれる人生には人知を超えた「神の時」、すなわち「神がせよ」と言われる時があるのである。それは自分の能力のあるなしを問わない。なぜなら助け主なる聖霊と二人三脚でそれを達成することが元々の狙いだからである。
この世の宗教は「人はいかに生きるべきか」を教える。しかし、「神から与えられる聖霊の祝福に頼っていかに生きるか」を教えることは稀ではないだろうか。イエスは弟子たちにそれをチャレンジしたのである。とかく自分自身を見がちな私たち。顔を上げて神の視点で現状を信仰の目で見つめなおすこと。すると、聖霊の助けにより別の視野が広がるのである。弟子たちがサマリヤを通過していた目的は少しでも早く、少しでも安全にガリラヤに戻ることであった。しかし、神の視点に立って自分の置かれている状況を見つめなおす時、その通過点と思われた時期と場所には福音宣教のまたとない機会が備えられていたことに気づかされるのである。イエスにはそれが見えていた。目の前に移っていたのは実際の麦畑だけではない。神の時、サマリヤ人の魂の収穫、刈り入れ時が来ていたのである。
伝道の機会と可能性を自分だけで判断しなかったイエス
ユダヤ人とユダヤ教は世界でも特殊な民族また宗教である。他の宗教が熱心に布教活動をするのに対して、ユダヤ教はさほど伝道には大きな使命感を持っていないかのようなところがある。それよりも自分たちが聖書の掟通りに生きていくことによって民族が繁栄することに重点が置かれているように見受けられる。その問題はイエスの時代のユダヤ人とサマリヤ人の対立で顕著となる。民族の純潔を重んじる正統派を名乗るユダヤ人たちはイエスの時代、他の民族の血が混じっている人を軽蔑する傾向があった。サマリヤ人はその点、歴史的に様々な人種と結婚し、純潔とはおよそ言えない人が多く住み着いている土地柄であった。同じ神を信じるイスラエル地方に住む者でありながら、挨拶や食事は無論のこと、礼拝を一緒にすることを拒否するほど当時のユダヤ人のサマリヤ人への偏見は強かったものと考えられる。
神の視点で物事を捉えなおす時、イエスのようにサマリヤ人は同じ福音を分かち合う対象であり、共に神を礼拝すべき仲間と受け止めることが可能となる。WWJDという合言葉がクリスチャンの間で流行ったことがある。What Would Jesus Do「イエスならどうするだろうか」と現状を見つめなおす習慣を大切にすることを指す。これを現在に適用すると「イエスは私たちと何をしたいと望まれているだろうか」と現状を見つめなおす習慣を持つことを大切にするということであろう。
神の導きとその時々の出会いを最大限大切にしたイエス
今日の箇所の続きでは、大勢の町の人々を引き連れてやって来たサマリヤ人たちは、イエスと会って、福音に触れて大勢がイエスこそキリストだと信じたことが報告されている。まさに収穫が実現したのである。しかも、イエスは彼らの要請に応じてなおサマリヤに二日間滞在したことが語られている。これは当初の弟子たちの計画にはなかった日程であったに違いない。
イエスの弟子として従うということは、この時の弟子たちのようにイエスの求めに応じて臨機応変に計画を変更する心のゆとりを持っていたいものである。また、イエスのように神の視点で物事を捉えなおして見ていくものでありたい。特に人を偏見で見ることから解放され、すべての人との出会いを与えられる神様の導きを信じ、互いを大切な礼拝の仲間として受け入れ合う教会にますますなっていきたい。
今週の歩み、そしていよいよ始まる新年度の歩みにイエスの視点で物事を見、神の御心を実践できるよう励んでいこう。まずは目を挙げ、今そこにある機会に目を止めるところから始めよう。
イエスが弟子たちと話終えた時、向こうからサマリヤの女性に先導されて大勢のサマリヤ人たちがやってくるのをイエスと弟子たちは目にしたのである。主の賜物を生かし合い、実践し合う人々が主イエスを囲んで一つとなるために。
使徒行伝1章8節に復活後のイエスが弟子たちに託した言葉「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」今度はサマリヤ全土に弟子たちが福音を本格的に広げていくことを霊の目で見ていることがわかる。しかもその続きとして「地のはてまで」とある。イエスの目にはイスラエルから見れば世界の果ての一つである日本の礼拝に出席している我々のことも視野に入っていたのかも知れない。主が与えて下さる霊の賜物の一つは、この主のまなざしではないだろうか。主のまなざしで物事を捉えなおしていく時、これまで気づかなかったお互いに分かち合える賜物がきっと見つかる。この主の約束に信頼して共に歩んでいこう。
2025年3月23日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「主の賜物を生かし合う」
2025年~2026年度 北九州キリスト教会 主題聖句と標語
標語 主の賜物を生かし合う
主題聖句 『目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。』
-
前の記事
洪水物語⑨ 収穫と悲劇 2025.03.23
-
次の記事
地上の民族のはじまり① 2025.04.06