十字架のイエスの叫び

はじめに

イエスは十字架につけられる前の晩にゲッセマネの園で弟子たちと祈っていた時に捕えられ、不当な裁判にかけられて翌早朝に十字架刑が確定します。その間、様々な侮辱を受け、度々暴力を受けたイエスでした。8時頃に十字架を背負わされてドロローサ(苦しみの道)の上り坂をゴルゴタ(頭蓋骨)の丘へと向かいました。到着すると両手首と両足首に太さ1㎝、長さ10㎝はあったであろう太い釘で十字架にはりつけにされました。午前9時頃のことでした。十字架に吊るされると、呼吸が苦しくなるため、体を持ち上げざるを得なくなります。その度に極限の痛みが手足に生じるのが十字架刑。激痛に耐えるイエスの傍らであざける群衆。永遠に続くように感じる3時間が経過して昼を迎えてからが本日の箇所となります。

イエスの最後の言葉が意味するもの

マタイによる福音書27章45-50節(48p)

 45節 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。46節 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47節 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。48節 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49節 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。50節 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。

イエスの十二弟子の中で以前は税の集金をしていたマタイ。仕事柄、帳簿の記録や報告書作成に長けていました。この能力を神は用いて新約聖書の最初の福音書の著者として用いられました。彼はイエスの十字架刑による悲惨な死がなんであったのかを短い文章で伝えました。イエスが十字架に付けられて息を引き取る間際に口にした最後の言葉からその答えを見出していきましょう。

イエスの最後の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、これは詩編22編1節の前半の言葉を引用したものだと考えられます。日本語訳では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶望がにじみ出た表現となっていますが、22編全体を読むとこの箇所がまさにイエスの十字架刑の出来事を預言していたことがわかります。

詩編22編(口語訳・旧約聖書764p)

最初の1~2節が十字架上のイエスの姿と重なります。1節 「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。…」。

7~8節もその時の群衆の態度と重なります。「すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。」。…本日の聖書箇所の49節を連想させます。

特に14~18節は十字架上での苦痛や兵隊たちの様子と一致します。14~15わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる」…特に下線部分は実際に死んだことを表現する言葉です。(ヨハネ福音書19章34節参照)

16節「まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。」…この箇所は十字架にはりつけにされた時の釘の刺さった場所を特定しています。

17節「わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。」体全体に走る激痛を表現しています。そして最後に、

18節「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。」これはヨハネ福音書19章23~24節に書かれており、死にゆく人にはもはや服は必要ないことを本人の前で行う侮辱の行為でした。これらの預言とこの後の解説が当てはまる人物はイエス以外にあり得ません。有史以来イエスの十字架刑以外に考えられません。聖書はイエスが十字架にかけられて処刑される遥か以前に、この日の出来事を預言していたのです。ユダヤ人だけでなく、人類に対して、イエスこそ罪とその呪いから解放することができる特別な救い主(キリスト)だと明確にするためでした。

詩編22編のもう一つの役割<永遠の希望へと続く叫び>

絶望で始まり、人々に見捨てられた人物の壮絶な最後が語られているにも関わらず、この出来事が特別な目的の元に実現する預言であることが終わりに近づくにつれて明確になっていきます。絶望がにじみ出ていた2節の直後の3節にも次のようにあります。「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。」…揺るぎない神への信頼が込められています。それでも置かれている現状がすぐさま本人を何度も絶望の淵に呼び戻すのです。

6節「しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。」…このような心境を体験した人はどれだけいるのでしょうか。それでも再び神に希望を見出していくのがこの詩編です。

9~10節「しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。」…壮絶な最後を遂げている最中だということを忘れさせるような力強い神賛美が繰り返し織り込まれて行きます。しかもその信仰はさらに強まり、自分以外の人々への祈りへと変貌を遂げて行くのです。

23~24節「主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。」…そして、その祈り心は自分のこの世での究極の使命が何であったのかを声高らかに叫ぶように賛美して終わりを迎えていきます。

27~28節「どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。」…ここにはもはや死に直面した自分も、自分を死に追いやろうとする人々も存在しません。神の愛に包まれ、世界中の国民が神の大いなる救いの業の前に伏し拝み、礼拝する情景に満たされた人物が語られています。

30~31節「子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救を/後に生れる民にのべ伝えるでしょう。」

最後は主こそ救いの神であることを来るべき世、すなわち世の終わりまで子々孫々(世界中に)告げ広められることになるという希望で詩編22編は閉じられます。これこそ、主イエスが最後に叫ばれた祈りの全貌だったのではないでしょうか。

この希望の中に招かれていることを心から感謝し、主の御名を賛美します。

2025年4月13日(日)   北九州キリスト教会宣教題
「十字架のイエスの叫び」

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