キリスト教特有の教え③ 十字架を負う者

じめに

今回のテーマは、キリスト教の教えの中でも特に理解が難しく、「どうやって実践すればいいのか分からない」と感じる人が多い内容です。イエス・キリストは次のように教えました。

ルカによる福音書14章27節(114p)

27節 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

この言葉はとても率直で、間違えようのない強い表現です。イエスの弟子になるには、それほどの覚悟が求められるのです。

イエスの厳しい教え

直前の26節では、さらに驚くようなことが語られています。

26節 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない

とても厳しいように聞こえますし、現実離れしていると思うかもしれません。これを聞いた人の中には、「そんなの無理だ」「イエスの教えは極端だ」と思った人もいたでしょう。それでもイエス様は、誤解を恐れずにこのように語られました。本当に大切なことだからです。

分の十字架とは

ここで特に理解したいのが「自分の十字架」とは何か、ということです。もともと十字架は、死刑囚が背負わされる苦しいもので、自分から進んで背負いたいと思う人はいません。でもイエス様は、「自分の十字架を負うてわたしについて来なさい」と言われました。イエスにとって「自分の十字架」とは自分の責任ではない苦しみや困難を、神様から与えられた自分の使命として引き受けることです。確かに簡単に実行できることではありません。それでもこれこそ神の愛に通じると主イエスは度々教えられました。

たとえば「よきサマリヤ人のたとえ話」(ルカ10章)も、まさにその実例です。三人の旅人の中で、山道で強盗に襲われたユダヤ人を助けたのは、普段は敵対していたサマリヤ人でした。彼は他人の苦しみを自分のことのように思い、犠牲を惜しまず世話をしました。このように、「十字架」を共に背負う姿勢こそ、「自分の十字架を負う」生き方なのです。主イエスは最後まで十字架を負う人生を貫かれたお方でした。

どこまで犠牲を払えばよいのか

イエス様の教えは「どんなときも家族より信仰を優先せよ」という意味ではありません。状況によっては家族を優先することも大切ですし、自分の命を守ることも必要です。理解の要は「わたしのもとに来るのでなければ」という言葉です。これには三つの理解があります。

一つ目はイエス様のもとへ行き、常に行動を共にすることを指します。当時イエスに従った十二弟子や、彼らの生活を支えた女性たちのように、イエスと常に共に生きることを意味します。教会から一歩離れると、イエスがあたかも一緒におられないような生活様式や言動を慎み、仕事であれ、余暇や娯楽を楽しむ場合にも、主イエスが共におられることを意識して生きることを指します。

私はこれを実行するために自分がキリストの親善大使だということを自覚するように心がけています。不思議と勇気が湧いてきて、胸を張って人前で行動できるようになります。

二つ目は「たとえ犠牲が必要でも、イエスに従う覚悟を持つ」という意味です。歴史を見れば、確かに信仰のために命を捧げた人(殉教者)もたくさんいました。たとえば、江戸時代の「踏み絵」もその一つです。彼らは、主イエスの教えに従うことに価値を見出し、命を懸けました。イエスが自分の代わりに追って下さった十字架がどれほどかけがえのないものであるかを理解するればするほど、自分の十字架を負ってイエス様の弟子として生きることが喜びとなります。

三つ目はイエス様のように十字架を背負い、あえて裁かれる側に立つことをいいます。人を裁きたい心や復讐心に支配されそうになった時には次の聖句を思い出すことも支えになります。

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

ペテロの第一の手紙2章21~24節

十字架には祝福が伴う

主イエスの十字架は自己犠牲や辛いことだけを意味するものではありません。イエス様はマタイ福音書11章でこう語られました。

29節 「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびき(十字架)を負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう

30節 わたしのくびき(十字架)は負いやすく、わたしの荷(十字架)は軽いからである」

「くびき」とは、牛などが2頭で荷物を引くときの道具です。このたとえで、イエス様は「あなたが十字架を負うとき、私も一緒に担っているから大丈夫」と励ましてくださっています。つまり、私たちが背負う十字架は一人ではなく、イエス様が共にいてくださるのです。だからこそ、どんな困難の中でも魂に平安を与えていただくことができるのです。

おわりに

今週もまた、私たちの生活の中には「自分の十字架を負う」機会がたくさんあるでしょう。でもそれは一人で背負うものではなく、主が共にいてくださるくびきを通して、心に平安が与えられる道でもあります。これからの一週間が、主イエスと共に歩む喜びと祝福に満ちたものとなりますよう、心からお祈りします。

2025年7月27日(日)  北九州キリスト教会宣教題
「キリスト教特有の教え③ 十字架を負う者」

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