キリスト教特有の教え⑦ 自己相対化の秘儀

じめに

キリスト教ならではの教え、第七回目(シリーズ最終回)はすべての人にとってハードルが高い教えを取り上げます。人間は自己正当化する生き物です。アダムとエバも神が定められた正義の基準に背いた時、まっさきにしたのが自己正当化、言い訳でした。自分の非を認めて謝罪するよりも、他人のせいにしたのです。聖書はこの領域に鋭くメスを入れます。最終回はこの問題にどう向き合い、キリストに習うように導かれているのか、みことばに聴いていきましょう。

自己正当化の根っこにある他人を裁く心

ローマ人への手紙14章1-6、13-15、17-19節(251p)
*今回の聖書箇所を整理するためにわざと5-6節の順番を入れ替えて記載しています。

1節 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない

2節 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる

5節 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである

パウロ書簡の中でも最も評価が高いローマ人への手紙。彼はこの中で信徒同士の裁き合いにどう向き合うべきかについて教えています。彼自身もかつては自分が育ったユダヤ教的背景でクリスチャンを裁いた過去がありました。執拗に断罪し、死に至らしめるほどに自己正当化をして、後悔してもしきれない過ちを犯した人でした。そのため彼自身もこの問題の根っこがいかに深いかを身をもって知る人物だったのです。

彼は教会の中でも価値観や信仰理解の違いから互いに激しくぶつかり合い、仲たがいする現実を目の当たりにしていました。1-2節には当時の宗教ごとに異なる食文化からくる裁き合いが存在したいたようです(豚肉を食べない文化や偶像に備えたものを食べないなど)。また、5節のようにユダヤ教徒が安息日(金曜日夕~土曜日夕)を特別に重んじていたのに対し、異教徒からクリスチャンになった人々はどの日も同じだと考えていたり、キリストが復活された日曜日を特別視するなどの違いがあったようです。

また、異教徒からクリスチャンになる場合にユダヤ教の習わしに従って割礼を受けなければならないかどうかの議論に至っては、エルサレム宗教会議が開かれるほどに大問題になったことが使徒行伝15章に書かれています。自己正当化の習慣、ひいては他人を裁く行為は古くから我々の中に刻まれているものなのかも知れません。

パウロは手紙を通してクリスチャンたちが真剣にこの問題と向き合うように促したのです。もはや全世界で当たり前のようになってしまった自己正当化、裁き合うという習慣ですが、キリスト教においては克服すべき重要課題と位置付けている点でキリスト教特有の教えだと言えます。

自己相対化の秘訣

6節 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する

3節 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから

4節 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人(である神様)によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである

13節 それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい

自己絶対化してしまう傾向を克服する方法、また他人を自分の価値観で裁かないための方法とは何か。そのためには「相手の側にも正義が存在するのであり、自分の側にだけ正義があるのではない」という自己を相対化をする視点を持つ必要があるということです。これが案外難しいのです。そこでパウロは相手がどんなことをする場合でも「神様に感謝しつつ、御心を実践しようとしていると受け止めるようにせよ」と助言しています。しかも神様自身がその人の行為を問題視するよりも、むしろやさしく受け止めておられることを自覚するようにと言っているのです。逆に言えば、我々自身も様々な欠点を神様の前にさらけ出して生きているにも関わらず、神様が忍耐強く接して下さり、我々のすべてを受け止めて下さっていることを忘れないようにするということです。

イエス様の有名な教えにマタイによる福音書7章1~5節があります。

人をさばくな。自分がさばかれないためである。…なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。…偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(抜粋版)

「梁(はり)」とは十字架に用いられるような太い木材を指します。自分の側にそれほどの欠点があるのに、相手の欠点にかまっている場合ではないはずだとイエス様は教えられました。これが自己を相対化するということです。相手が何者なのかを問題視するよりも、自分がどれほど裁かれるべき存在なのかを自覚する時、他の人に対しても寛容になれるとイエス様は教えたのです。イエス様こそ、私たちの目の中の梁(十字架)をご自分のこととして引き受けて下さったお方です。

神の国の一員、そしてキリストの親善大使として生きる

14節 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである

15節 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである

17節 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである

18節 こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである

19節 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか

イエス様が最終的に私たちを導こうとされている神の国(天国)は、人を見下す習慣も、誰かを裁く習慣もない場所です。なかなかそのように実践することができない私たちであっても、主イエスがそこに導き入れて下さると約束して下さっています。それならば、少しでも早くそこに住む者にふさわしく生きようではありませんか。

国を代表する親善大使というのは、どんなに失礼な態度を取られたとしても、親善大使としての重要な役割を忘れず、常に堂々と振舞うことが求められます。その使命の重大さを理解しているからこそ、時には屈辱的な仕打ちを受けたとしてもそれに耐えることができるのです。

私たちも神の国の国籍を持つ者、キリストの親善大使として生きる自覚を持つ時、どんな相手から突き付けられた十字架であっても、それをキリストと共に耐え忍ぶことができるようになることができます。キリストを信じる者に寄り添う聖霊が、キリストの親善大使としてふさわしく生きることができるように助けて下さるからです。イエス様は今週も、私たちを用いて下さろうとしています。この約束を自覚して今週の歩みをはじめていきましょう。

2025年8月31日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「キリスト教特有の教え⑦ 自己相対化の秘儀」

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