キリスト教と葬儀② 葬儀とお墓

じめに

今月はキリスト教と葬儀に関する3回シリーズで宣教をお届けします。第1回は葬儀への備え、第2回は葬儀とお墓について、そして第3回は死後に起きることをテーマにお届けします。日本は神道、仏教を始め、様々な宗教が混在する国です。異なる葬儀や死後の世界についての考えが存在する国に生きる者として、どのようにこれと向き合っていけばいいのでしょうか。また、どのように自分や家族の葬儀に備えて行けばいいのでしょうか。この機会に理解を深めていきましょう。

イエスが地上で息を引き取られた時の出来事

マタイによる福音書27章50-53節(49p)

50節 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた

51節 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け

52節 また墓が開け、①眠っている多くの②聖徒たちの死体が生き返った

53節 そして③イエスの復活ののち墓から出てきて、聖なる都にはいり、④多くの人に現れた

マタイ福音書にはイエスが息を引き取られ、かつ復活されて間もない頃の地上で起きた出来事が報告されています。
①ここで「眠っている」と表現している箇所は「既に息を引き取った」という意味です。
②すべての遺体が生き返ったのではなく、一部の聖徒たちの遺体が生き返ったという表現です。かなり限定的なものでした。イエス様が死に打ち勝ってよみがえられたことに対する計り知れない可能性を示唆しているものと考えられます。
③イエス様が亡くなった直後ではなく、復活した後の出来事だったと念を押しています。埋葬されていた墓から出て来るというかなり超自然的な出来事でした。
そして④多くの目撃証人がいるくらい、確かな出来事だったと伝えています。

この箇所が明らかにしていること

これを通して聖書は死について以下のような重要な真理を明らかにしています。

人は死ぬと完全に消滅するのではなく、イエス様の選びによって特別な肉体の姿で生き返ることが可能だということです。これはヨハネ福音書11章に登場するベタニヤに住んでいたマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだ場合とは区別する必要があります。ベタニヤのラザロの場合は、死んで葬られてから数日後のことであり、病死だったと考えられますが、生き返った時の身体はあまり変わらなかったと思われます。そして、やがてはまた寿命が来て死んだと考えられるケースです。死後数日経っていたので体の腐敗は始まっていた点では本当に生き返った例と言えます。それでも、出来事としては一時的に死んで蘇生した人とそれほど変わりなくその後の人生を送ることができたケースでした。

これに対し、イエス様の復活後に墓から出て来た人々というのは、一時的に生き返って多くの人々の前に現れたものの(復活したイエス様のように手足と脇腹の傷の痕跡は残しつつ)、死んだ直後の体のままではなく、おそらく生前の特徴を残しつつ健康で若々しい姿でよみがえったと推測できます。その後もイエス様が昇天されていなくなったように、彼らも再度死んで埋葬されることなく、人々の前から姿を消したものと考えられます。そのため、イエス様の復活の後に墓から出て来た聖徒たちというのは、自分たちの役目を果たした後は人知れず天に再び引き上げられたケースだと私は考えます。

これらを総合すると、聖書の重要な真理とは、復活されたイエス・キリストには、死後何年経っていたとしても、新たな肉体でよみがえらせることができるということです。

葬儀への参列の心構え

死は大切な人との離別であり、悲しみを伴うのため、葬儀というものは遺族に寄り添い、お互いに慰め、励まし合うことを大切にします。宗教を問わず一般的な葬儀に参列する場合には、大切にすべき共通点だと言えるでしょう。その上でクリスチャンならば、仏教式や神道式の葬儀であっても礼節をわきまえ、失礼のない服装や態度を心掛けたいものです。ただし、仏教や神道の信者と間違えられるほど細部に至るまで身なりや所作を真似なければならないということではありません。むしろ明らかに他宗教の信者が行う所作は避ける方が良いでしょう。心を込めて葬儀に参列していることが伝われば、それでいいのです。

これはキリスト教葬儀に参列する他の宗教関係者に対しても同じです。他宗教の方も礼節を守り、心を込めてキリスト教式の葬儀に参列していただければ、それでいいのです。他の宗教の方のために焼香台を設置し、お清めの塩を用意するなど、行き過ぎた配慮の必要はありません。

使徒パウロが他宗教の人へ取った態度についてコリント人への第一の手紙9章19-22節で表現しているように、異なる価値観や宗教的背景がある人に対してはクリスチャンとしての自覚を持ちつつ、適切に対応することは大切なのです。

夫が他宗教で喪主を務める場合

これまでによく質問を受けたのは、夫の実家が他宗教でかつ長男であるために、夫が喪主を務める場合の妻の葬儀での立ち振る舞い方です。その場合はできるだけ心を込め、率先して葬儀の準備を手伝うことによって、クリスチャンとしての良い証を立てることをお勧めします。過去には偶像礼拝だと決め付けて葬儀の準備を一切手伝わないケースや葬儀自体に参列しないケースが日本のキリスト教会でもあったと聞いています。これは偶像礼拝に対して過剰に反応してしまった例だと言えるでしょう。我々はパウロがコリント人への手紙で語った知恵に学びましょう。

お墓について

お墓はキリスト教においてもそれぞれの国、文化、歴史によって違いが顕著になる分野です。ユダ教や欧米のキリスト教では遺体は直接土葬されることを重視します。これに対して日本では火葬が原則です。その後にお墓に埋葬するのか、海に散骨するなどの方法は、届け出の義務はありますが、基本遺族の自由がある程度与えられています。

なお、近代まで目まぐるしく葬儀やお墓についての考え方は変化して来ました。それでも近代に入ると、家社会などの文化的要因から、夫婦の意向だけでお墓は決められず、親族の意向を考慮しなければならないという事情が存在します。仏教のお寺などでは仏教に改宗する儀式を行ってからでないと所属のお墓に家族と一緒に納骨が許されないケースもあるので注意が必要です。

基本的に日本のキリスト教理解においては、キリストがどのような死因の人でも新しい体に生き返らせることが可能だと考えていること。また、前回言及したように死んで体の機能と血液循環が完全に止まった人の魂は数時間後には完全に肉体を離れて天の世界に移されると理解しています。そのため、どのようにその後遺灰を扱うかは極めてご遺族の判断と故人の生前の要望に負うところが大きいと言えます。遺灰の扱いについては、かなりご遺族の自由だと考えていいでしょう。

最近でこそ、日本におけるお墓事情も随分変化しており、お墓によってはペットさえも一緒に納骨できるところもあると聞いています。また、夫婦の遺骨だけを納めるような形態のお墓やビルの中で管理されるお墓など、お墓の形態と費用も選択肢が広がり続けています。

当教会では毎年召天者記念礼拝で故人を覚えることができることは大変感謝であり、葬儀形態が複雑で多岐にわたるようになりつつある現代だからこそ、改めてその意義を考えさせられます。

2025年9月14日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「キリスト教と葬儀②葬儀とお墓」

礼拝動画はこちらからご覧ください。