奇跡を信じる根拠① 十字架

じめに

10月31日はマルチン・ルターが宗教改革を始めたことを記念する日です。この日を迎えるたび、キリスト教の歴史が誤り多いものであったことを思わされます。この時の反省から、聖書と教会音楽は一部の聖職者のみが読み、また歌うものではなくなり、世界中の人々が自らの母国語で聖書を読み、賛美できるようになっていきました。
このような歴史的遺産を持ちながら、現代はかつてないほど聖書解釈が教会・教派・異なる宗教間で対立を生み出している時代はないと思わされています。様々な場面で自分の正当性を主張し、相手側が間違っていると主張するのを目撃します。わたしは牧師家庭に生まれ、人一倍教会・教派・宗教間におけるこの対立に心を痛めながら育ちました。なぜ赦しと和解を重視するはずの場所で絶えず対立と分断が起きるのか。これが発展して国内外での紛争や戦争に至る現実を目の当たりにします。キリストが十字架を背負われたのはこれを根絶したいとの切実な思いからだったはず。
パウロもコリントの教会で起きていた信徒同士の衝突に対して手紙で「十字架の言葉(自分に向けられた人々の呪の言葉と暴力行為に対して罪の赦しを祈るイエスの言葉)は、滅んでいく者(それが神にとってどれほど罪深い行為かを自覚しようとしない者)にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者(救い主イエス・キリストに希望を寄せる者たち)には神の力(赦しがたきを赦す力)です。」(Ⅰコリント1章18節と1章全体参照)を思い出します。

11月は北九州キリスト教会にとって行事が多い月であると同時に、今年は教会設立60周年の節目の時でもあります。この機会に、時代が変化しても決して揺らいではならないキリスト教信仰の要、そして聖書の中心概念である「十字架」と「復活」と「処女降誕」についてみことばに聴いてまいります。これらの共通点は、現実離れしていると否定されてもおかしくないということ。それでもこれらの奇跡こそキリスト教、そして聖書の要となる信ずべき内容であることを再確認したいと思います。これからも長くキリストに忠実な教会として成長・発展していくために、また聖書の中心信仰が揺らいでいると懸念される現代だからこそ、大切にしていきたい主題だと思わされています。

神様にとって罪を赦すとは、敵対者に自分の命を与えるほどの覚悟を伴う行為

ペテロの第一の手紙2章22-25節(368p)

22節 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23節(復讐せず ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24節 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました(罪なきイエス・キリストが神に罪の赦しを祈り求める者のために、自分の命を犠牲にして十字架におかかりになったのは)わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25節 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです

新約聖書は繰り返しイエス・キリストの十字架が唯一無二の特別な出来事であったと主張しています。これまで十字架刑に処せられた人は数えきれませんが、人類を罪とその呪いから救う目的で十字架刑に処せられたのはイエス・キリストだけです。しかも、死後に罪人の魂が留まることになる黄泉という霊的な場所でも罪がもたらす死後の刑罰さえ受けて下さったのです。この理解の上にキリスト教と新約聖書は成り立っているのです。これがキリスト教の根幹にある信仰理解です。

キリストの十字架刑理解をゆがめるイスラム教指導者の聖書理解

現在世界で活躍するイスラム教の著名な人物にザキール・ナイキ(Zakir Naik)という人がいます。他宗教に対するイスラム教の優位性を主張する弁論者として、数々の宗教者と対談し、相手の教理の矛盾点を取り上げて論破しようとする人物です。彼が相手を一方的に論破するネット動画も数多くあります。また、彼の主張に対抗する反論動画も存在します。

彼の主張によれば「キリストの十字架刑の目的は確かに人類の罪をあがなうためであった」とまずはキリスト教の重要教理に一定の理解を示します。しかし、何よりも異なるキリストの十字架刑理解とは「キリストが十字架刑で死んだのではなく、一時的に仮死状態になったのであって、実際には死ななかった」と主張する点です。「イエスは死んだと誤認されて十字架から取り下ろされた後、蘇生した」と主張します。そして「弟子たちはそれに気づき、慌ててそれを隠すために、イエスが死んだと見せかけて墓の中に安置した」と主張するのです。従って、厳密にはイエスは死んだのではなく、復活もしていないと主張するのです。

ナイキ氏はキリストの十字架刑は罪のあがないを預言する旧約聖書と一致することに同意します。しかし、キリストの死と黄泉に下ったこと、そして復活を否定するのです。イエスは神の救済史上欠くことのできない預言者ではあるが、神ではなく、偉大なる預言者の一人だったと結論づけます。そして、最後の預言者こそイスラム教の教祖であるムハンマドだと主張するのです。しかし、このような理解では先に述べたキリスト教の中心教理は成立しないのです。しかも使徒パウロや現代の科学者の証言がイエスの十字架刑の意味と死んで葬られたことの正当性を後押しするのです。

使徒パウロの主張

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。…キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」
コリント人への第一の手紙15章12節-15節

この箇所には当初からユダヤ人たちの間にキリストの復活を否定している人々がいたことがわかります。それと同時にパウロはキリストが確かに十字架に架けられて死んだとの前提で語っていることがわかります。そしてキリストが復活したことも事実であり、これらの前提が否定されたならば、信仰も福音宣教も無駄になると主張します。従ってキリストの死と復活を否定することは、神に対する冒涜以外のなにものでもないと主張しているのです。このように新約聖書を読む限り、イエス・キリストが十字架刑で死んだ事実とその後の復活は紛れもない事実として認識されていたことが明白です。罪なきキリストが十字架で罪のあがないの死を遂げられたことは、否定してはならない信仰理解の一つなのです。

現代科学からのもう一つの検証

先月の宣教シリーズでニューヨークタイムズ・ベストセラー作家に名を連ねる元ジャーナリストで当初は無神論者だったリー・ストロベル氏の『THE CASE FOR MIARCLES』の紹介をしました。その中で無神論者だったCIA科学捜査官が妻をキリスト教信者にしないために最先端の科学的手法を駆使して福音書の記者たちが嘘の記述をした証拠を見つけるために聖書を検証する話があります。ただしその結果、福音書の記述は実際に起きた事実としてどの福音書記者も記述していることが判明し、彼自身もクリスチャンになったという内容です。イエス・キリストの十字架と復活は、聖書の最重要信仰理解であり、また現代科学からも検証可能な歴史的事実なのです。

2025年11月2日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「奇跡を信じる根拠①十字架」

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