天国の評価基準

旧約聖書の預言が紛れもなく一言一句、神が人類に与えた預言の言葉ならば、我々人類はどのように神の言葉と向き合うべきだろうか。また、どんな認識を持って聖書と向き合うことが重要なのかをイエスが教えられたのが今回の箇所である。旧約聖書の神の教えは、一つ一つ傾聴するに値する内容なのだということ。現代の自分たちとは関係が薄い教えだと決め付けてはならず、軽く扱ってはならないということである。

聖書の一点、一画の重み

「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」 これからも聖書の預言とその内容は変わらず、世の終わりまで実現していくというこの宣言は、イエスの教えに喜んで耳を傾け、その教えと真摯に向き合おうとしておられるすべての人に当てはまる約束である。神の言葉は必ず成就することが決定しているからこそ、これから聖霊による奇跡を期待できるということである。

世の光としての役割と加減

イエスは弟子たちに地の塩としての役割と世の光としての役割を果たして欲しいと教えた。イエスが「あなたがたは、世の光である。」という時、どのような意味が込められているのだろうか。「世」は「世界」という言葉に、光は「命」と置き換えることもできる。「あなたがたは世界中の人に必要な光、すなわち命を届けることができる存在なのである。」と、希望の光の光源である神に人々の目が向くように、世の光としての役割を用いなさいと励まして下さっている。

塩の役割と加減

山上の説教の9つの幸いシリーズに続いてイエスが語るのは、天の国の住人として自覚しながら生きる時、それがこの世にどのような違いを生むかについてである。私たちが何者なのか、どのような役割を果たすことが期待されている存在なのか。それを教え、その使命に生きるように励ます。

山上の説教Ⅲ 負の賜物

山上の説教のはじめの7つの幸いではイエスは現在のこととして語っているが、今回の第三部では過去形が用いられている。この世ではだれもが神の目に正しいことをしようとして、思うようにいかなかった経験を過去にもつ。悲しみも迫害も、本来さいわいであるはずがないと考えるのが世の中の常識。でも、イエスはそのような者に向けて「さいわい」なり、と励ますのである。未来にはこの地上におけるどんな負の賜物も決して見落とされることはないばかりか、その報いはさらに大きいと励まして下さっている。

山上の説教Ⅱ 平和を創る

前回取り扱った「こころの貧しい人」、「悲しんでいる人」、「柔和な人」は、いずれも我々の心の内面で起きる事柄であった。対して今回の4つ、「義に飢えかわいている人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和をつくり出す人」は、いずれも他の誰かとの関わりが生じる内容になっている。今回はこれを前提に個々の事例に踏み込むと共に、前回同様にそれぞれが次の「幸い」とどのように関わり、発展していくのかを引き続き見ていきたい。

山上の説教Ⅰ 逆転の人生

山上の説教の最初に「こころの貧しい人」を幸いだと語るイエス。日本では「こころの貧しい人」というのは「心が卑しい人」のように勘違いされそうな表現。しかし、その本来の意味は「神の愛に満たされていない人」、つまり神の愛、励まし、助けを必要としている人のことである。そのような人たちのために、神は天国を用意されたとイエスは最初に語ったのである。

シリヤまで広がった福音

4人の漁師をはじめて弟子にした場面に続く今回の話はイエスの宣教をまとめたような内容になっている。マタイはイエスの宣教の総括を述べてから、次回5章から始まるイエスの教えシリーズを展開していく。マタイがこのような話の進め方をした背後には聖霊の導きがあったと信じる。聖書は神の霊感によって書かれた書物である。今回のような箇所からも神の福音を聞き取っていきたい。

最初の弟子たち

イエスが最初に弟子にしたのが二組の漁師の兄弟であった。彼らを勧誘したときのイエスの言葉「人間をとる漁師にしてあげよう」これはどのような意味であろうか。 漁師とイエスの宣教の共通点、そして彼らを背後で支えた家族の存在を読み取りながら、主イエスがそれぞれの賜物を用いてくださることを期待したい。

福音は悔い改めから

「悔い改めよ、天国は近づいた」 イエスの3年半の宣教活動で行った宣教を最大限短い言葉で表現したのがこの言葉であろう。「悔い改めよ」と聞けば「罪」が連想されることが多いが、イエスの宣教は「罪」に焦点を合わせるのではなく、むしろ「神」に焦点を合わせるための呼びかけだと言える。「神の教えに人生の照準を当てて生きよ」という呼びかけである。このような意味で「悔い改めよ=方向転換せよ」と呼びかけた。

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