受難予告③ 十字架を明言される主
マタイによる福音書20章17-19節(32p)
三度の受難予告の目的
マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜか。弟子たちに語った目的とは。どんな内容を理解して欲しかったのか。今回のシリーズの興味はそこにある。
マタイによる福音書16章、17章、20章に書かれているそれぞれの受難予告を比較検討していく時、そこに違いが存在することに気づく。そして次第にイエスの真の意図が見えてくる。24日に受難週、31日にイースターを迎える今だからこそ、共に理解を深めておきたい。
なぜイエスは十二弟子だけに3回目の受難予告を限定したのか
17節 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、…
過去2回は国外とガリラヤ地方滞在中の予告だった。今回はいよいよエルサレムに向かう途中での最後の予告となる。他にも弟子たちは大勢いたことと思う。しかし、イエスは十二弟子だけに限定して第三回目の受難予告をしている。
彼らだけに伝えたかった特別な内容とは何だったのか。彼らに理解して欲しかった内容とは。これは我々への問いでもある。
明らかになって来たイエスの死に方、殺され方
18節 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19節 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
これまでもイエスは自分が殺されることを明言して来た。ただし、どんな殺され方かは明確ではなかった。石打ちの刑についてはヨハネによる福音書が繰り返し報告している。8章では姦淫の現場で捕らえられた女性が石打ちの刑に処せられそうになりながら、イエスに助け出される話が登場する。同じ8章の後半にイエス自身がユダヤ人たちに石を投げられて殺されかける話が語られている。使徒行伝7章後半にはステパノが石打ちの刑で殉教した最初の弟子として報告されている。レビ記20章や24章などに、占いをする者や神の名を冒涜する者を処刑する方法として石打ちの刑が言及されているので参照されたい。イエスが石を投げられそうになったのは、この刑に該当するとユダヤ人たちに判断されたのである。
今回、イエスはこれらよりも厳しい死刑が待っていることを弟子たちに告げたのである。ユダヤ教に準じた処刑ではなくローマ帝国のもとにある法廷での死刑宣告。その極刑で殺されることをイエスは弟子たちに語ったのである。「十字架につけさせるために、異邦人に引きわた」されると言ったのはそう言う意味が含まれる。それは聖書に基づく死刑ではなく、この世が作り出した死刑宣告だったのである。
それでは、なぜイエスは旧約聖書にも言及される、神の権威に基づいた処刑方法ではなく、異教の裁判で下される十字架刑で殺される必要があったのだろうか。十字架刑にはどんな特別な意味があったのか。ここに明確な違いがあることを理解できた時、イエスが背負った十字架の真の姿が明らかになってくる。それはあまりにもせつなく、悲しい人間の現実を映し出しているものであった。
十字架刑が意味すること
旧約聖書には「十字架刑」という言葉はないが、「木にかける」という死刑方法がこれに最も近い。死罪に当たる律法違反を犯した者を石打ちの刑で殺した後、木にかけて人前に夕方までさらす死刑方法が存在した。死刑執行の後に木にかける理由は、神を冒涜した故に、神に呪われて死んだという見せしめのために行われたのである。
申命記21章「22節 もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は」…とあり、次の節に「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」と書かれている。
ユダヤ人指導者たちが十字架刑にこだわったのは、イエスが神に呪われてこの地上での命を終えたお墨付きの極悪人だということを民に印象付ける狙いがあったと考えられる。こうすれば、民がイエスに抱いていたメシヤとしての幻想を打ち消すことができると考えたのであろうか。彼らは自分たちの裁判で、石打ちの刑にし、木にかけてイエスを神に呪われた者として殺す決断ができなかったのである。民衆を恐れたのである。イエスはユダヤ教の指導者たちに、聖書に基づく正当な裁判で死刑判決を下されることを放棄され、異邦人の手に渡されたのである。
しかし、このような最後を遂げることが、神がイエスに授けていたメシヤとしての使命だったのである。人類の苦難と呪いをこの世に産声をあげた時から死ぬ時まで担い続けることが生まれて来た使命、生まれた時から負っていた十字架を負い続ける使命であった。
神の権威によらない裁判と判決。その結果、聖書に基づかない極刑で、生きたまま十字架に付けられたイエス。イエス・キリストは異邦人が作り出した裁判、死刑道具、拷問方法でこの世での最後を遂げたのである。イエスが十字架上で息を引き取った時、文字通りこの世に対して死に、抹殺された瞬間であった。しかも、木にかけられたことに変わりはなかった。神に呪われた者としてこの世での最後を遂げたのがイエス・キリストなのである。それは我々をこの呪い、現実から救い出すためであった。
イザヤ書53章を黙想する
最後に神の預言者イザヤを通してこのことが神の御心であったことを確認し、今回のシリーズを閉じたい。次週は受難週を迎える。これらの聖句を引き続き黙想しながら主の御前に示される罪、自我、思い煩い、神に背く一切の重荷を十字架の下に各自が持っていく時にしていこう。
2024年3月17日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「受難予告③十字架を明言される主」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/gUErmY5Y0bw?si=l5N7t4BVZZjIAWLX
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