聖書は、神の存在とその目的を見失ってしまった人類への「ラブレター」です。その中心テーマは、私たちの歩みに物心両面で深く関わり続けておられる、人格的な天地創造の神です。創世記1章は、この神を忘れてしまった私たちに対し、決定的に重要な「六段階の創造の業」を指し示しています。そこには、神様のご人格に倣って、この世界を神の祝福で満たしなさいという招きが含まれています。 本日は第1章の締めくくりとして、「見て良しとされる神」という側面から、神様が私たちに伝えようとしておられるそのお心について、共にみことばに聞いてまいりましょう。
キリスト教と葬儀に関する3回シリーズ、第1回は葬儀への備え、第2回は葬儀とお墓についてでした。そして第3回は死後に起きることをテーマにお届けします。人は死ぬとどのような手順で霊の世界に移されることになるのか。仏教などでは四十九日など、一定の期間をかけて魂が霊界に移動する考え方が存在しますが、キリスト教には別の考え方があります。これについては、イエス・キリストが十字架の上で隣の死刑囚に語った内容が大きなヒントになります。さっそくご一緒に確認しましょう。
主の祈りシリーズが終わった直後に断食の教えが続く。実は主の祈りの直前で取り上げた施す時の教えと祈る時の教えとが3点セットになっている。この三つに共通していることに注目すると共に、同時にこの三つの教えを通してイエスが何を強調しているのかについて合わせてみことばに聴いていく。
山上の説教の最初に「こころの貧しい人」を幸いだと語るイエス。日本では「こころの貧しい人」というのは「心が卑しい人」のように勘違いされそうな表現。しかし、その本来の意味は「神の愛に満たされていない人」、つまり神の愛、励まし、助けを必要としている人のことである。そのような人たちのために、神は天国を用意されたとイエスは最初に語ったのである。
マタイによる福音書も各福音書もイエスが受難予告を繰り返し弟子たちに語ったことを記録している。それはなぜか。弟子たちに語った目的とは。どんな内容を理解して欲しかったのか。受難週を次週に迎える今回は、マタイによる福音書20章に書かれている十二弟子だけに語られた受難予告から、十字架刑が意味するところ、そして預言者イザヤを通してこのことが神の御心であったことを確認していく。