目からウロコの創世記シリーズ⑪ 第六日-3:見て良しとされる神

じめに

聖書は、神の存在とその目的を見失ってしまった人類への「ラブレター」です。その中心テーマは、私たちの歩みに物心両面で深く関わり続けておられる、人格的な天地創造の神です。創世記1章は、この神を忘れてしまった私たちに対し、決定的に重要な「六段階の創造の業」を指し示しています。そこには、神様のご人格に倣って、この世界を神の祝福で満たしなさいという招きが含まれています。 本日は第1章の締めくくりとして、「見て良しとされる神」という側面から、神様が私たちに伝えようとしておられるそのお心について、共にみことばに聞いてまいりましょう。

創世記1章21, 25,31節(旧約聖書1-2p)

1:4 神はその光を見て、良しとされた。 1:10 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
1:12 地は青草と~種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
1:18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
1:21 ~水に群がる~動く生き物と~すべての鳥を~創造された。神は見て、良しとされた
1:25 地の獣~、家畜~、また地に這うすべての物を造られた。神は見て、良しとされた
1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である

7度にわたって「見てよし」とされる神

今回抜粋した箇所を含め、創世記第1章の中で、計7回、神は『見て良し』とされました。まず6回の点検、そして最後にもう一度全体を総点検し、6日間の創造が完璧に計画通り進んだことを確認し、「はなはだ良かった」と喜ばれたのです。 これは、神様の大切なご性質を表しています。それは、神様が「ご自身のなされたことに、最後まで責任を持たれる方」だということです。造りっぱなしにして、あとは勝手にしなさいと放り出すような、無責任な方ではありません。
ある高名な画家が、大きな壁画を描き上げました。完成した後、彼は何時間もその前に立ち、細部をじっと見つめていました。弟子が「もう完成したのに、何をされているのですか?」と尋ねると、画家は満足そうに微笑んでこう言いました。「私はこの絵の中にある、すべての線と色が、私の愛する子供たちのように思えるのだよ。すべてが正しい場所にあるのを確認して、初めて安心して『良し』と言えるのだ」。
神様の「見て良し」も、これと同じです。単なるチェックではなく、愛情に満ちた眼差しで、私たちがそこに存在することを喜んでおられるのです。

神様が現代に向けるまなざし

昨今、「ネグレクト育児放棄)」という言葉を耳にすることが増えました。身体的な世話をしないだけでなく、子どもに関心を持たず、愛情を注がない「情緒的ネグレクト」も深刻な問題です。こども家庭庁の最新データ(2024年度)によれば、児童相談所の虐待対応件数は22万件を超え、そのうちネグレクトは約3万5千件(約16%)にのぼります。これほど多くの子どもたちが、誰からも「良し」と見つめられず、放置されている現実に、私たちは心を痛め、祈りを合わせずにはいられません。
しかし、聖書の示す神様は、この世の冷淡さとは正反対の方です。イザヤ書46章4節には、力強い約束があります。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

造られたからには、最後まで責任を負う。すべての存在を慈しみ、「良し」と肯定してくださる。この責任感あふれる愛こそが、私たちの信じる神様のご人格なのです。

父・子・聖霊なる神による永遠の関わり

創造主として最後まで責任を持って被造物を見守られる神様。大牧者として私たちの罪の重荷さえも負って下さり、天の御国まで導き続けて下さる救い主。そして不確実で試練多き私たちの人生を共に最後まで伴走して下さる助け主なる聖霊。私たちは今日から始まる新たな一週間も三位一体の神様の温かいまなざしの中にあるのです。
世界最高峰のバイオリン、ストラディバリウス(史上最高のバイオリン製作者アントニオ・ストラディバリ1644頃~1737イタリア…の名に因んでそう呼ばれている)。この楽器が数百年経っても輝きを失わないのは、単に頑丈だからではありません。名器には、それを守り、調整し続ける「修復師」の存在が不可欠です。 ある有名な修復師は言いました。「私はこの楽器を造ったストラディバリの意図を読み取り、その音が最高の状態で響き続けるまで、決して手を離しません」。 神様も同じです。私たちを「最高傑作」として造られた神様は、私たちが傷ついたり、音が狂ったりしても、「造った責任」として私たちを修復し、再び「良し」と言える状態まで導き続けてくださるのです。

おわりに

神様が「見て良し」と言われたその眼差しは、遠い天地創造の昔の話ではありません。今、この礼拝の場にいるお一人おひとりに注がれている眼差しです。世の中は、何か成果を出さなければ「良し」としてくれないかもしれません。あるいは、自分自身でさえ「自分なんて……」と、自分をネグレクト(放置)したくなる時があるかもしれません。
しかし、あなたを造られた神様は、決してあなたを放り出しません。イザヤ書にある通り、あなたが白髪になるまで「持ち運び、かつ救う」と約束してくださっています。神様は今日、あなたをじっと見つめてこう仰います。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している
(イザヤ書43:4の新改訳版)」

創世記第1章で語られて来た神様こそ、すべてを「良し」とされた神様。そして聖書全体で、この神様は御子イエス・キリストと聖霊によって私たちの罪さえも十字架のあがないの御業によって洗い流して「義(よ)し」として下さる義なる神様です。この全能者の責任ある愛に身をゆだね、新しい一週間へと歩み出していきましょう。

2026年3月22日(日)  北九州キリスト教会宣教題
「目からウロコの創世記シリーズ⑪ 第六日-3:見て良しとされる神」

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