十字架の叫び(棕櫚の日曜日)
はじめに
来週の復活日(イースター)を一週間後に控え、本日より「受難週」が始まります。この最初の日を「棕櫚(しゅろ)の日曜日」と呼びます。イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城された際、多くの群衆が歓迎の意を込め、棕櫚の枝を道に敷いて迎えたことに由来します。
しかし、この熱烈な歓迎ムードは長くは続きませんでした。イエス様が神殿の境内で不正な商売をしていた人々を追い出したこと、当時の支配層であるパリサイ人や律法学者を公然と非難したこと、そして安息日に病人を癒やすという宗教的慣習を打ち破る行動をとったこと。これらはユダヤ人指導者層の激しい敵意を買うに十分でした。
一方で、ローマの支配からの解放を願う民衆は、イエス様を「政治的な革命指導者」として期待していました。このままではローマ軍の介入を招き、自分たちの特権が剥奪されると恐れた指導者たちは、策略を巡らせてイエス様を十字架刑へと追い込んだのです。
十字架刑は、単なる処刑法ではありませんでした。「木にかけられた者は神に呪われたものである(申命記21:23)」という当時の理解を利用し、イエス様に「神に見捨てられた存在」というレッテルを貼ることが、彼らの狙いでした。イエス様を信じた人々の夢を打ち砕くには、これ以上ない残酷な手段だったのです。彼らはこれで実権と平和が戻ると信じていました。しかしながら、イエス様が十字架に架けられたその日は、人類がかつて経験したことのない「暗黒の一日」となったのです。
マタイによる福音書27章45-46節(新約48p)
27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
十字架の叫びの意味
この叫びは、一見すると壮絶な苦しみの中での「神への恨み節」に聞こえます。多くの病人を癒やし、絶望から人々を救い出してきた「神の手(ゴッドハンド)」を持つイエス様が、なぜ自分自身を救うことができないのか。弟子たちですら、神がみすみすイエス様を見殺しにするはずがないと信じていたことでしょう。
しかし、神は沈黙されました。聖書にある「わたしはあなたがたが年老いるまで変わらず、白髪となるまで持ち運ぶ(イザヤ46:4)」という約束は、なぜイエス様には適用されなかったのでしょうか。
イエス様は自暴自棄になってこの言葉を発せられたのではありません。実はこの叫びは、詩編22編の冒頭の一節です。当時のユダヤ人にとって、詩の冒頭を唱えることは、その詩全体を思い起こさせることを意味しました。つまりイエス様は、この絶望的な状況において、全世界を罪から救うというメシア(救い主)の使命が、今まさに「完了しようとしている」ことを宣言されたのです。
「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。…(詩編22編1節)」
詩編22編の全貌
詩編22編は、凄まじい苦難の描写が繰り返されます。
「わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる(6節)」 「わたしの手と足を刺し貫いた(16節)」 「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする(18節)」
これらはまさに、新約聖書で描かれる十字架上のイエス様の姿です。しかし、この詩は絶望では終わりません。詩編22編には同時に深い信頼と賛美の歌詞が登場します。
「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。(2-4節)」
「主が苦しむ者の苦しみをかろんじず……その叫ぶときに聞かれたからである(24節)」
そして最後は、全人類の救いという勝利の預言で締めくくられます。
「地のはての者はみな主に帰り……子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救を/後に生れる民にのべ伝えるでしょう。(27-31節)」
イエス様は、最後の声を振り絞ってこの詩を引用することで、ご自身の死が敗北ではなく、預言の成就であり、未来へとつながる「希望の勝利」であることを示されたのです。
十字架の言
使徒パウロはこの真理を深く理解していました。
「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」(Ⅰコリント1:18)
ここで「十字架の言」と表現されているのは、それが単なる断末魔の叫びではなく、死を打ち破る神の決定的な「勝利宣言」だということをパウロが強調したかったからなのでしょう。新約聖書では、しばしば枝葉のない「言」という漢字を用いてこれを読者に印象づけています。イエス・キリストは言葉と行い、そしてその壮絶な人生と死にざまで、死と絶望の象徴であった十字架を命と希望のシンボルに変えたのです。
おわりに
神様が人間に虐殺されるなど、あってはならない悲劇です。しかし聖書は、人間の罪と不信仰が、神を殺そうとするほどに深いものであることを映し出しています。神様はこの悲劇を避けるのではなく、自らその渦中に飛び込み、呪いの象徴であった十字架を「救いの架け橋」へと変えられました。十字架の叫びは、私たちの絶望を神様がご自身の問題として引き受けられた、究極の愛の証しなのです。
最後に、キリストの受難の意味を問う短編映像「ブリッジ」を鑑賞し、この十字架の叫びを静かに黙想しましょう。
<YouTube「ブリッジ‐知られざる愛の物語‐Most(The Bridge)」isaac3337より>
2026年3月29日(日) 北九州キリスト教会 宣教題
「十字架の叫び」
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