福音は悔い改めから
異邦人のガリラヤ
マタイによる福音書4章12-17節(4p)
4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。4:13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。4:14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。4:15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
イエスはヨルダン川で宣教していたバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けた。その直後に荒野で40日間断食祈祷をした事については前回語った。その間にバプテスマのヨハネはヘロデ王に恨みを買い、投獄される(詳しくは14章参照)。イエスはこの知らせを聞き、それまで生活していた故郷のナザレを後にしてカペナウムで宣教を開始した。最初の活動拠点に選んだのは、ナザレから25キロほど北東に行ったガリラヤ湖畔最北の町カペナウムであった。ここは南北の国々を結ぶ交通の要所にあった。ガリラヤは非常に肥えた土壌だったため、農業が盛んで、人口も多い土地柄である。歴史的には度々外国の支配下に置かれて来たため、異教の影響を受け、混血も多く、戦争時の死者も多く出る土地柄であった。15-16節で「異邦人のガリラヤ」、「暗黒の中」、「死の地、死の陰」と言われたりするのは、そのためである。このような土地柄であったため、人々の気性は荒いが、新しい思想や文化を積極的に受け入れる風土があった。ガリラヤ地方、そしてカペナウムという町は、イエスにとっては預言を成就するための場所だったかもしれないが、前述の条件が揃っていたガリラヤ地方はイエスの最初の活動拠点として最適だったと言える。
イエスの宣教を要約した17節のことば
4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
イエスの3年半の宣教活動で行った宣教を最大限短い言葉で表現したのが17節の言葉であろう。マルコ福音書ではこれを4語で表現している。1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。どちらにも共通しているのが「悔い改めよ」である。
ギリシャ語聖書ではこれを「メタノイア」といい、「方向転換」が語源の言葉。日本では「悔い改めよ」と聞けば、大抵は「罪」という言葉とセットで用いるが、イエスは必ずしも罪を前面に打ち出して宣教したわけではない。むしろ、「方向転換して生きよ」と宣教したのである。その意味あいは「罪」に焦点を合わせるのではなく、むしろ「神」に焦点を合わせるための呼びかけだと言える。「神の教えに人生の照準を当てて生きよ」という呼びかけである。このような意味で「悔い改めよ=方向転換せよ」と呼びかけた。
似て非なるバプテスマのヨハネの言葉
マタイは3章冒頭でイエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが同じ言葉で宣教していたことを報告している。 3:2 「悔い改めよ、天国は近づいた」と。しかし、イエスとバプテスマのヨハネとでは「悔い改めよ」に込めた意味が大きく異なる。ヨハネの方はむしろ我々に馴染みの深い「罪」を悔い改めるという意味で語っている。それを強調するために神の裁きの時が近づいていることを語るのである。3:7 ヨハネは…彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか」と。ただし、結論はやはり一緒になる。バプテスマのヨハネの場合は3:8 「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」となり、神の教えである聖書に人生の照準をしっかりと合わせ、それにふさわしい生き方を実践せよ」とヨハネもイエスも語るのである。
「天国は近づいた」とは
この言葉もヨハネとイエスで意味がかなり異なる。ヨハネは前述の7節で語っているように「迫ってきている神の怒り」すなわち「神の裁きが真近に迫っている」という意味で「天国は近づいた」と語る。これに対し、イエスは「神の圧倒的な恵みが神の方から人間の方に近づいてこられた」という意味で語っているのである。
ヨハネは罪人を近い将来襲う神の恐ろしい裁きとセットで生き方の修正を促す。対して「神自らが圧倒的な恵みを持参してこられたので、神の招きに応え、これからは神と二人三脚の人生を生きよ」とイエスは語る。イエスの方の「悔い改め」は福音とセットになる概念である。
イエスに人生の舵取りを任せる
人生は今まで行ったことのない目的地に車で向かうようなものである。しかも道に迷ったり、事故を起こす可能性のある難所も多い旅路である。イエスが「悔い改めよ=方向転換」に込めるもう一つの意味は、イエスに人生の舵取りを任せよという呼びかけである。言い換えると人生の「方針転換」を促したのである。イエス以上に目的地までの行程を熟知している方はいない。だからハンドルをイエスにバトンタッチするのが、一番確実、安全な旅となる。それでも危険な道は避けられない。イエスと一緒に苦労することもあるかも知れない。車から降りて障害物を取り除く作業。道中、困っている人を助ける作業。イエスとの旅は寄り道をしない目的地へ一直線の旅ではないかもしれない。それでもあらゆる困難の対処法をご存知のイエスとの旅はどんなに心強いことであろうか。
イエスは言われる。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」ヨハネによる福音書14章6節
確かにバプテスマのヨハネが語ったように、世の終わりの時はいつか必ずやってくる。そしてそれまで地上に生を受けたすべての人がバプテスマのヨハネとイエスが語ったように悔い改めることができたかどうかが問われることになる。悪魔は不正確な地図を私たちに渡し、自分の力だけで目的地まで到達するように過信させる天才である。これに惑わされてはいけない。人生最良の地図は聖書である。ここに明確に神の指示と人生の勘所、終着駅までたどり着くための具体的な方法までが書かれている。イエス・キリストの霊である聖霊は今週もあなたの人生の舵取りをするために待機していて下さっている。
2024年4月21日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「福音は悔い改めから」
礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/l3IWW89xj-Q?si=xGiTpIuztLK6VKNk