山上の説教Ⅰ 逆転の人生

ガリラヤ湖北部の丘の特徴

マタイによる福音書5章1-5節(5p)

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

5章に入り、マタイはイエスのガリラヤ地方での具体的な宣教内容を詳しく説明し始める。ただし、これらは時系列に語られたものというより、イエスのガリラヤでの宣教を一か所にまとめたような内容になっている。また、山上の説教とよく呼ばれるが、実際には山に登ったのではなく、カペナウムの町の近くにあったガリラヤ湖から北になだらかに傾斜する丘陵地帯での出来事だと考えられている。そこはガリラヤ湖畔が一望できる自然の演劇場のような効果が期待できた。イエスがその丘の下の方から上方に座った群衆に話をすると、イエスの声は辺り一帯の広範囲の場所まで風が運んでくれるのである。大声を張り上げなくても、群衆がイエスの話に耳を傾けるのに絶好の場所であった。

イエスの宣教の特徴が現れる山上の説教

 5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

10~12節までを1つと数えるか、2つと数えるかで8つないし9つの幸いの教えとなるその最初の2つの幸いの教えは一般常識と異なることに気づかされる。最初は「こころの貧しい人」を幸いだと語るイエス。日本では「こころの貧しい人」というのは「心が卑しい人」のように勘違いされそうな表現。しかし、その本来の意味は「神の愛に満たされていない人」、つまり神の愛、励まし、助けを必要としている人のことである。そのような人たちのために、神は天国を用意されたとイエスは最初に語ったのである。

イエスは悲嘆にくれそうな現実から転換させ、神の目はまさにそのような人々に注がれていると励ます。イエスはこの世の最も素朴な疑問に対して明確に応える。なぜ、この世には不幸な人が存在するのか。その答えは、だれもが神に見捨てられずに愛されていることに気づかされ、神の愛が輝きを増すためであった。

最後に必ず報いがあると約束されるイエス

 5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

別れ、願いが叶わない、約束が破られる、失敗を繰り返す、失恋、拒否される、暴力を受けて痛い目に合う、病状が悪化するなどなど、悲しみの原因は数えきれない。それにも関わらず「悲しんでいる人たちは幸い」と語るイエス。この世の現実を直視する限り、悲しみのただ中にいる人にとって、このような慰めの言葉はむなしく響くだけかもしれない。それでもこの言葉を語るのが神の代弁者である限り、その言葉には真実と希望がある。

「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(イザヤ書55章11節)

イエス・キリストは神の意志と言葉を実現する生き方が可能であることを証明するためにこの世に遣わされた救い主である。だから、途中経過ではなく、最終的にどうなるかを預言し、語っているのが山上の説教の特徴。「彼らは慰められるであろう。」これが神を信じ、神に人生を委ねる者たちの結末となる。

柔和な人とは

5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

三番目の「柔和な人たち」とはどんな人たちであろう。第一と第二の幸いを試練と捉えるならば、その結果培われていくのが柔和な人格だと言える。人の言葉に左右されず、一喜一憂せず、人を偏り見ず、あるがままの自分を受け止めることのできる人である。そのため、御霊の9つとされる「愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制」の8番目の人格に数え上げられている。

なぜ、そのように心を保つことができるのか。それは自分が造り主に創造された欠けの多い存在だと自覚しているからである。そして、その不完全さを神に用いていただくことが自分の存在理由だと理解しているのである。だから自己卑下をしない。他人の長所をねたまない。むしろ他の人の長所が主に用いられていることを素直に喜ぶ。そして、自分も用いていただく時が必ず来ることを信じるのである。

最終的には幸いが結末になるように導かれる神。地を受け継ぐとは神の民の一員として、次の世代に神の意志を継承する役割を託される存在になるということである。柔和な人こそ信仰の継承を実現していく人なのである。

英語で「ニュートラル」という言葉がある。自動車を運転する時のギアの名称の一つにもなっている。ニュートラルには「どちらにも偏っていない」、「バランスが取れている」、「客観的」などの意味がある。柔和な人は、徹底して他の人を尊重できる人だと言える。己の限界を知っているからこそ、人にもやさしくできる。それが柔和な人を育てるのではないだろうか。人をこよなく愛し、人から愛される人。それが柔和な人だとしたら、これはまさに幸いな人だと言える。そして、その人は神の国の相続人となるとイエスは強調された。

柔和な人になっていくために与えられる負の賜物

柔和な人になっていくことが神の国を相続し、継承する人だとするならば、イエスが最初に挙げた二つの幸いこそ、柔和な人になっていくための不可欠の要素だと言える。謙虚に、そして深く己の不完全さを自覚するためには、様々な人間の痛みを共感できることが必要となる。イエスは山上の説教の最初の3つの幸いであたかも次のように教えているように思う。神はいたずらに人間に欠乏、痛みと悲しみを与えておられるのでない。それらを通してあなたは他の人の欠乏、痛みと悲しみを共感することができるようになると。

柔和な者こそ、神が用意されている国と地を相続するのである。イエスについてはイザヤ書53章でも預言されているように、苦難の僕なのである。我々人間の様々な欠乏、痛みと悲しみを知っているからこそ、我々にどう寄り添えばいいのか理解しているのである。イエス・キリストこそ我々に天国への道を指し示すことができるお方である。イエス・キリストこそ真に慰めを与えることができるお方である。そしてイエス・キリストこそ、我々の模範であり、かつ神の国をその地を継承する権限を与えることができるお方である。

二コリント4章16節「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」このように信仰告白できるのも、柔和な心で神にしか与えることのできない愛にすがりつき、悲しみの先にある最終的な慰めを見失わないからである。使徒パウロもエペソ人への手紙3章13節で次のように信仰告白している。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。」あらゆる困難な出来事を幸いだと受け止めなおす逆転の発想を与えて下さる主イエスに感謝。

 

2024年5月12日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「山上の説教Ⅰ 逆転の人生」

礼拝動画は下のリンクからご覧ください。
https://www.youtube.com/live/xwykHD5DrQo?si=3QOOzPHkxEdQEXcM