キリスト教特有の教え② イェシュアの祈り
はじめに
キリスト教ならではの教え、第二回目は主の祈りこと、主イエスが最も大切にされた祈りです。これはすべてのクリスチャン、そして人類が模範にすべき祈りとしてイエス様が弟子たちに教えた祈りです。この祈りは日曜毎に唱和されているにも拘わらず、世界でも日本の教会でも内容をよく理解した上で実践することが軽んじられているのではないかと危惧しています。
私は中高生時代に学校の授業で剣道や柔道を学び、牧師になり名古屋の平針教会時代に合気道を少し学びましたが、武道には基本となる型があります。その型は有段者になるほど重要な意味を持つ真理が隠されているのです。ですから、上達するために基本は徹底して身に付けた上で、それをどう応用するかを学び、実践することがとても大事になってきます。
主の祈りも初心者の間は唱えて暗記するだけでいいのですが、すべてのクリスチャンは少しでも早くそこに込められた祈りの神髄を理解していき、より深い祈りへと導かれる必要があります。この機会にもう一度一歩踏込んだ主の祈りを理解していきましょう。主の祈りは一般的、あるいは日常的な祈りとは別次元の祈りであることを理解し、意識して実践していけたらと願っています。
イエスは当時なんと呼ばれていたのか
今日はあえていつも唱えている主の祈りが少しでも新鮮に響くように当時の弟子たちがイエス様をヘブライ語で呼んでいた時の形式で宣教題をつけました。イエスの両親と兄弟、友人や弟子たちは当時「イェシュア」と呼んでいたのです。新約聖書の原典であるギリシャ語聖書には「イェスース」と書かれていますし、英語訳聖書ではYの頭文字をJで発音するため、「ジーザス」と書かれていますが、いずれも正式なイエスの名前の発音ではありません。
ヘブライ語には一文字一文字大切な意味があるように「イェシュア」の文字にも特別な意味があります。専門的なことは省き、結論だけお伝えするとイェシュアとは「イェ=神の右手を表し、全能なる力と責任を象徴しています」、これに「シ=全てを焼き尽くすか、完全に清める絶対的力」が、「ュ=釘や杭を表すこの文字が示す通りに対象物をご自身と決定的に繋げていかれる神の働き」により、「ア=ご自分の群れに目を注ぎ、命の泉へと導き、ぶどうの実を熟させ、忠実な証人、僕へと導かれる」。という地上でのイェシュアの働き・使命を的確に表現する名前になるのです。
マタイ1章21-23節によれば、イエスの父ヨセフが天使ガブリエルから妻マリヤについての受胎告知を受けた時、「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。と、このことを説明していますが、「イェシュア」自体がこのことを深い次元で表していると思います。
私たちが日常の祈りの最後に今後は「イエス様の御名によって祈ります」という代わりに「イエス様の御名(イェシュア)に込められたあなたのご意志を心から感謝してこのお祈りをお捧げします。」と時には気持ちを新たに祈ってみてはいかがでしょうか。
自分や家族の健康、安全、平和、癒しなどには重きをおかない主の祈りの特徴
それではイェシュアの祈りは一般的な祈りとどのように違うのでしょうか。まず第一にイエスはマタイ福音書6章26-33節で空の鳥にさえも目を注がれている神様なので、なおさら人間は自分と周りの人々の生活のことで思い煩ってはならない。つまりそのために毎日祈る必要はないと教えられました。むしろ33節のように「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と教えられたのです。これを具体化したのが「主(イェシュア)の祈り」です。
イェシュアの祈りの特徴
マタイによる福音書6章9-13節(8p)
最初の特徴は冒頭に表現されています。「天にまします我らの父よ。・・・み名(イェシュアの名)をあがめさせたまえ」です。「天」は神様が私たちを導き入れたい神の完全なご支配に満ちている領域。そのためになぜ神がイェシュアを遣わされたのか、その動機と愛を私たちが自覚して祈ることから始めることを教えています。
次に「父」。先週説明したように、ユダヤ教においても、世界の常識でも神を父親同然に呼びかけることは神への冒涜だとみなされかねません。主イエスはそれゆえに迫害を受け、処刑されたのです。イェシュアの祈りは冒頭から我々にこの世の常識的な祈りを遠ざけ、一途にイェシュアに込められた神のたぐいまれなご人格を尊重して祈ることを教えています。この事実を最初に自覚すればするほど、祈りは神礼拝へと変えられていくのです。これが第一の特徴です。
次は「み国を来たらせたまえ、・・・天になるごとく地にもなさせたまえ。」ここで大事になるのは「地」の理解です。地とは私たちの「日常・現実生活」を指します。どんなに困難な現実に直面していてもそのただ中で神のみ国が地において実現できるように今日を生きます。という覚悟を込めて祈ることを指します。「そうできるように」お願いするのではなく、それが神様のみ心だと確信して「そのように生きます」とむしろ宣言しているのがイェシュアの祈りです。
三番目の祈りも生活の必需品を求めることに主眼をおいた祈りではないことはすでに話しました。それならば「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」とは、何を具体的に求める祈りなのでしょうか。イエス様はこれをヨハネ福音書4章34節で次のように説きました。
「わたしの食物(糧)というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」
その日、その日、神様が成し遂げて欲しいと願っておられる使命があります。その他の雑多な仕事、趣味や娯楽に必要以上の時間を裂かずにいかにその使命に専念できるか。そして最後まで目的を実現するまでやり遂げることができるか。それにはイエス様が遣わして下さる聖霊の助けが必要不可欠だと自覚して祈ることを指します。
聖霊の助けを祈り求めることがイエス様の最優先の祈りであったことはすでに過去の宣教でも強調してきた通りです。聖霊は仕事でも趣味でもありとあらゆる生活の場面でいかなる言動でキリストの証し人として歩むべきかを導かれるお方です。その重要性をわきまえてその日を生きることをイエス様は教えられたのです。
四番目の祈りは今回のシリーズの中で別に取り上げます。
五番目の祈りは「我らをこころみにあわせず、悪より救い出(いだ)したまえ。」
この祈りは神様の意志、また神の子としての生き方に反するすべての言動に勝利できることを願う祈りです。それが簡単ではないことを自覚することが大事なだけではなく、自分の力だけでは不可能だという現実を正しく認識して祈る必要があります。
この五番目の祈りは特に最後の主の祈りの部分と連動しています。これが可能なのは、「(神のみ)国と(すべての罪と誘惑に打ち勝つ)力と栄え(神が導かれる勝利)とは限りなくなんじ(イェシュア)のものなればなり。」だからです。このような信仰を込めて祈り、最後に「(あなたのみ心とイェシュアの祈りに導かれて祈りましたので、安心して)あなたにすべてを委ねます。」という意味が「アーメン」なのです。今週の歩みの上にイェシュアの祈りが天の父なる神の祝福へと導かれていくことを祈りつつ。
2025年7月20日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「キリスト教特有の教え② イェシュアの祈り」
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