奇跡を信じる根拠③ 処女降誕
- 2025.12.18
- 目からウロコの聖書
- テモテへの第二の手紙, マタイによる福音書, ルカによる福音書, 使徒行伝
はじめに
今月は教会設立60周年の節目を迎えています。この機会に、時代が変化しても決して揺らいではならないキリスト教信仰の要、また聖書の中心概念である「十字架」と「復活」と「処女降誕」についてみことばに聴いています。これらは常識からすれば現実離れしている内容ばかりですが、これらの奇跡こそキリスト教の必須概念であり、信ずべき内容であることを再確認したいと思います。
本日は礼拝の中で子ども祝福式を行います。子どもたちの健やかな成長を祈る時、今後の健全な聖書信仰の醸成も大事な祈りの課題だと考えています。しかし、昨今の日本バプテスト連盟ならびにキリスト教界隈で耳にする処女降誕を否定する聖書理解には少なからず危機感を覚えます。そして、子どもたちにも処女降誕が信ずべき信仰理解だという理由と、その根拠を正しく継承する責任があると痛感させられています。かつてのような単純に信じればいいという時代ではなくなってきているように思います。この機会に処女降誕こそキリスト教信仰の大切な要であることをご一緒に確信していきましょう。
古くて新しい処女降誕をめぐる議論
私は約10年前に埼玉県にある連盟事務所で行われた式文研修会の中で、処女降誕を式文の中に入れるべきかどうかの議論がなされたことを記憶しています。その時に処女降誕が実際に起きたかどうかはさほど問題ではないと考えている牧師たちが少なからずいることに愕然としました。どうして聖書に明確に記述されている処女降誕を否定できるのか。しかも「十字架」と「復活」理解と同様にキリスト教信仰の要であり、聖書の中心概念であるはずの「処女降誕」を軽視できるのか理解できませんでした。
その時に取り上げられた否定根拠は三つありました。一つはマタイ福音書に書かれている受胎告知の一節1章23節「見よ、おとめがみごもって男の子を産む…」で用いられている「おとめ」という単語は、引用元の旧約聖書イザヤ書7章14節では「若い女性」という意味の言葉が用いられているため、これを根拠にマリヤが処女であったと断定できないという理由でした。二つ目は他宗教においても超自然的に教祖が誕生した伝説は存在し、福音書の著者たちもその影響を受けたと推測できるという理由。そして、三つ目に福音書の中で最も早く書かれたとされるマルコ福音書にはイエスの誕生物語が書かれておらず、処女降誕話はマルコにとっては重要ではなかったという理由です(ヨハネ福音書も受胎告知や降誕物語がありません)。
これらに加え、実はキリスト教の歴史には処女降誕に関連した重要な議論がこれまでにもありました。イエスは「歴史上実在した人間であり、同時に唯一人間となられた神である」という一見矛盾するように思える信仰理解には古くからの歴史があります。これが定着していくのは325年にヨーロッパの二ケアで行われた世界会議から451年カルケドンで行われた世界会議までの真剣な議論を経てのことでした。この間「イエスは神であって、人間ではなかった」との見解や「イエスは神でも人間でもなく、その中間的存在だった」とするような理解も存在したのです。
こうした議論を経て、現代でも多くのキリスト教会・教派で重んじられる「使徒信条」が作成されました。ご存知の方もおられると思いますが、その一文に「主はおとめマリヤより生まれ…苦しみを受け、十字架にかかり、死にて葬られ…」とあるのは、こうした信仰理解を信仰の要であり、聖書の中心概念として長く継承するために編み出された信仰告白なのです。
処女降誕をキリスト教信仰の要とすべき根拠
次に処女降誕を事実と信ずべき根拠について述べたいと思います。第一に聖書に明確にそれを記述した箇所がマタイとルカ福音書の二か所にあるからです。先に例にあげた処女降誕否定派で取り上げられる聖書箇所ではなく、近くにある別の節の方が重要なのです。
*マタイ福音書1章18-20節(重要箇所抜粋)
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。…主の天使が夢に現れて言った。「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』」
ここに明確に神ご自身の聖霊が介入してマリヤが超自然的に妊娠することが述べられています。
*ルカ福音書34-35節(抜粋)
「そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありません(直訳:男性との性交渉経験がない)のに。」御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。』
ルカではマリヤの妊娠が神の手による超自然的な妊娠だということが語られているだけでなく、マリヤが当時処女であったことを明言しているのです。
もし、これほど明確に聖書に記述があるイエスの処女降誕が否定されるならば、イエス・キリストの十字架刑と復活という歴史的事実も信じる根拠を失います。これまで2回に渡って根拠を示して来た内容も合わせて是非ご自身でよく考えていただきたいと思います。もしこれらを裏付ける数々の聖書記者の証言が事実無根だと片づけられるならば、聖書はもはや信じるに値しないものになります。「十字架」と「復活」と「処女降誕」を否定することは、キリスト教信仰の根本理解を否定することと同じなのです。それではもはや次のパウロとペテロの宣教内容も非常識であり信頼に値しないという理由で否定されることになります。
*第二テモテ3章16節
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
*使徒行伝4章12節
「この人(イエス・キリスト)による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」
聖書こそ神様と出会い、生きる意味と人生の結末を知る唯一無二の書
キリスト教は人類愛に最大の重きをおいている宗教ではありません。聖書こそ、神証明をする唯一無二の書だと主張します。聖書こそ神がいかなる目的と最終目標を定めて世界を創造されたかが啓示されている唯一無二の書だと主張します。その中心主題はイエス・キリストです。本来は不可能なはずの神理解が可能となるために神は救い主イエス・キリストをお立てになりました。イエスこそ人類を罪とその呪いから救う奇跡のお方であると主張します。そこからすべての神の祝福が開かれていくと教える宗教です。
これらの内容を完全に理解する必要はありません。こどもから大人まで、神様が求められているのは素朴な信仰です。ただし、どの宗教も目指すところは同じで、「富士山に登る道は多くあれど、頂上はひとつ」などと間違った認識をしないことを切に願います。実際にはそれぞれの宗教の教理を学べば、強調点も結論もまったく違う宗教だということがわかるはずです。人生は有限です。時間も有限です。できるだけ早い時点で聖書を人生における最重要信仰書に定め、これに最大限の時間を割く人生となりますよう心から祈ります。
2025年11月16日(日) 北九州キリスト教会宣教題
「奇跡を信じる根拠③ 処女降誕」
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